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台北公会堂

台北公会堂(たいほくこうかいどう)は台北市中心の延平南路に位置する建築物。日本統治時代1936年12月26日台湾総督府営繕課の井手薫の設計で建築された。1945年、国民政府による接収が行われると台北中山堂と改名され、1992年1月には中華民国政府による国家二級古跡(直轄市定古跡)指定を経て2019年に国定古跡に昇格[1]

現在の台北公会堂

歴史

 
清台灣巡撫衙門旧址碑

1887年、当時台湾を統治していた清朝は台湾布政使司を新たに設けた。1889年台北城西門内の西門街北側に政使司衙門を建築、台湾における行政の中心地とされた。1895年5月下関条約により台湾が日本に割譲されることとなったが、これに反対する勢力が台湾民主国を建国。政使司衙門が総統府として使用されたが、僅か2週間で政権は崩壊し、同年6月に日本軍が進駐し布政使司衙門を接収した。その後1919年台湾総督府(現在の総統府)が完成するまでの間、布政使司衙門は台湾総督府の庁舎として使用されていた。

1931年に総督府は皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇行啓の記念と民間の文化活動に供するため、布政使司衙門を取り壊し新たに公会堂を建設する計画を発表する。1932年8月、総督府は布政使司衙門を現在の台北市立植物園に移転させ、同年12月に台北公会堂の建設工事が着工、1936年12月に完成している。

1945年の日本敗戦に伴う第10方面軍司令官安藤利吉台湾総督)の降伏調印式が台北公会堂で行われ、同年中華民国政府により台北市中山堂と改称され、1949年の中華民国政府遷台後は中山楼が完成する1966年まで国民大会の議事堂として用いられた。

特色

 
日本統治時代の台北公会堂

市民集会の場所として建設された台北公会堂は、1936年当時、その規模と設備は東京大阪名古屋に次ぐ規模を有していた。設計は台湾総督府営繕課の井手薫の他、(八阪志賀助)、(神谷犀次郎)などが手がけ、実際の建設は台湾総督府営繕課により実施された。

 
台北公会堂前の孫文銅像、もともとは民政長官祝辰巳の銅像

台北公会堂の幅は60.5m、奥行き113mで、4階建ての床面積4,000平方メートルであり、内部は集会室と食堂により構成されている。集会室は2階構造であり、座席数は2,056席、映画上映設備を有していたため1950年代から1960年代にかけては公務員・教員を対象とした無料映画上映が行われていた。また、国民大会1966年に(中山楼)が完成する以前は台北公会堂で開催されていた。

食堂は3階にあり、床面積は1,400平方メートル。その他に娯楽室、理髪室、貴賓室、厨房などが設置されている。また、屋上には反射式望遠鏡を備えた天文台が設置されていたが、これは戦後(円山天文台)に移設されている。この他、戦後になり公会堂広場に孫文の銅像(市指史跡)及び抗日戦争勝利記念碑が設置されている。

1936年に完成した台北公会堂は、戦時体制が強まる初期であったため単純な設計が行われた。建築的には1930年代に流行した鉄筋コンクリート構造を基本とし、外壁には(北投窯場)で生産された浅緑タイルを採用。また、台湾では珍しいアラブ様式の窓などが特徴として挙げられる。

現況

現在は台北中山堂の名称で台北市の所有となり、台湾の演劇界での重要な発表の場として使用されている。

脚注

  1. ^ (繁体字中国語)臺北公會堂、旗後礮臺、打狗英國領事館及官邸 升格為國定古蹟 2019-02-23,文化部

外部リンク

  • 台北市中山堂資訊網

座標: 北緯25度02分35秒 東経121度30分36秒 / 北緯25.043148度 東経121.510082度 / 25.043148; 121.510082

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