口羽 通良(くちば みちよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利氏の重臣。吉川元春、小早川隆景・(福原貞俊)と共に(御四人)の一人に数えられる。
出自
家系は大江姓毛利氏の庶家にあたる坂氏一門志道氏の傍流にあたる。(志道元良)の次男で、兄に志道広良がいるとされるが、広良との年齢が46歳差で大きくかけ離れていることから、広良の子とする説もある。
生涯
永正10年(1513年)、(志道元良)もしくは志道広良の子として生まれ、毛利元就に古くから仕える。初めは「志道」の名字を名乗ったが、後に石見国邑智郡口羽村[注釈 1]を領し、(琵琶甲城)を居城としたことから、在名を取って「口羽」を名字とした。
天文3年(1534年)に塩冶興久の処遇に関して尼子氏との関係が悪化した備後の山内直通に接近することを元就に命じられて山内氏と親交を深めた。この時、偏諱をくれるよう山内直通へ再三願い出て「通」の字を与えられ、名を「通良」と改めた。
兄の志道広良が死去した弘治3年(1557年)頃から兄に代わって抜擢される。永禄5年(1562年)に毛利氏に帰属した赤穴盛清の重臣・(来嶋清行)と起請文を交わし、元亀元年(1570年)には出雲の(湯原氏)の軍忠を吉川元春と共に毛利元就と毛利輝元に上申する等、主に吉川元春を補佐して山陰地方の制圧やその統治等を任された。
元亀2年(1571年)に元就が死去した後は輝元を補佐し、元春や小早川隆景、(福原貞俊)と共に(御四人)体制の一角を担った。行政手腕に優れていたため、名家老とも謳われている。元亀3年(1572年)の(毛利氏掟)の制定では、輝元から命じられた条々を御四人の連名で年寄衆と奉行衆に下している。
天正10年(1582年)7月28日に死去。享年70。肖像が島根県邑智郡邑南町下口羽の吉祥山延命寺に残っている。また、宗林寺の墓を移設する際に古銭や刀等が出土している。