生涯
初代当主・南部義元の嫡男。父、義元に継ぎ甲斐の南部庄に在居。宗家南部氏4代当主・南部政光の意向でその跡と決まるが意に反し甲斐に戻る[3]。
正慶2年(1333年)5月、大塔宮の綸旨を賜っていた新田義貞の鎌倉攻めに北条高時は金沢貞将、桜田貞国らを軍の将として武蔵国へ差し向け、入間川[]で戦うが利あらず。このため高時は舎弟の四郎左衛門を大将として差し向けるが、義行はこの一軍と共に出陣している。武蔵の分倍河原で新田軍と戦うが、入道慧性の北条軍は総崩れとなり大敗する。
新田軍はこの後、鎌倉に入り、北条氏の鎌倉幕府は滅亡するが、慧性は奥州に一族の居た南部太郎[4]と、(伊達六郎)を道案内に再起を期して奥州に落ち延びていた[5][6]。
異説
南部家の「嫡家系譜」や『新潮社刊太平記』、『参考太平記』などでは南部太郎・伊達六郎を入道慧性の道案内にしているが、「近世こもんじょ館」の<「寛永諸家系図傳」史料批判>では『三翁昔話』の記述として、『太平記大全』では奥州までの慧性の道案内をしたのは南部二郎とし、信行としている。
脚注
- ^ 南部太郎は嫡家系譜に拠る。
- ^ 「南部系譜」によるが、「嫡家系譜」では南部氏宗家第6代当主。南部系譜系の(甲斐南部氏)系譜上では第2世当主。
- ^ 『南部史要』ではこの時から家勢が衰え、京都大番や鎌倉の参勤が絶たれたとしている。
- ^ 「参考太平記」ではこの他に金勝院本版として南部太郎を(南部三郎景家)としている。この他には「南部史談会誌」の辯誤南部八世小伝では義行の末子の南部信行とする説や、<近世こもんじょ巻>の7 【各種南部系図】対「寛永諸家系図傳」史料批判の三翁昔語の記述として、「太平記大全」で恵性に付き従った南部二郎(孫次郎は信長の兄茂時の幼名だが、嫡家系譜の記述に間違いでなければ信長も幼名としている。)を信行としている。
- ^ 「盛岡南部氏物語」の嫡家系譜による。
- ^ この戦いには義行の嫡子義重や根城南部氏の南部時長・南部政長兄弟は新田勢として、義行の次男とも、煕時の次男ともされる茂時を初めとする三戸南部氏は幕府側として戦いの中にいた。
出典
- 熊谷孝『南部史要』 1972年、熊谷印刷出版部
- (吉田政吉)『盛岡南部氏物語』 1975年、国書刊行会
- (岩館武敏)『九戸戦史』 1907年、九皐堂