魏晋南北朝時代
504年(正始元年)、北魏により設置された南秦州を前身とする。南秦州は天水郡・漢陽郡・武都郡・(武階郡)・(脩城郡)・(仇池郡)の6郡18県を管轄した[1]。
隋代
隋初には、成州は2郡3県を管轄した。583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、成州の属郡は廃止された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、成州は漢陽郡と改称され、下部に3県を管轄した[3]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
唐代
618年(武徳元年)、唐により漢陽郡は成州と改められた。742年(天宝元年)、成州は同谷郡と改称された。758年(乾元元年)、同谷郡は成州の称にもどされた。成州は(隴右道)に属し、同谷・上禄・長道の3県を管轄した[4]。762年(宝応元年)、成州は吐蕃に占領された。789年(貞元5年)、泥公山に成州として仮設置された。872年(咸通13年)、同谷県に成州が設置された。
宋代以降
宋のとき、成州は(秦鳳路)に属し、同谷・栗亭の2県を管轄した[5]。1225年(宝慶元年)、成州は同慶府に昇格した。
1241年、モンゴル帝国により同慶府は成州と改められたが、秦州の天水県は成州に移管された。1270年(至元7年)、同谷・天水の2県が廃止され、成州に編入された。元のとき、成州は陝西等処行中書省に属し、属県を持たない散州となった[6]。