南淵 永河(みなぶち の ながかわ)は、平安時代初期の貴族。姓は坂田宿祢のち坂田朝臣、南淵朝臣。(大和守)・坂田奈弖麻呂の三男。官位は正四位下・(因幡権守)。
経歴
朝野鹿取・小野岑守・菅原清人らと共に春宮・神野親王(のち嵯峨天皇)の侍読を務める[1]。大同元年(806年)少外記。
大同4年(809年)嵯峨天皇の即位に伴い民部少丞に任ぜられ、弘仁4年(813年)従五位下・(但馬介)に叙任される。民部少輔・治部少輔・(備後守)を経て、弘仁10年(819年)従五位上・権左少弁に叙任されると、弘仁11年(820年)右近衛少将に右中弁、弘仁12年(821年)には正五位下・左中弁に蔵人頭を兼ねるなど嵯峨朝後半は文武の要職を歴任した。しかし、弘仁13年(822年)蔵人頭の官職を解かれている。
弘仁14年(823年)淳和天皇の即位に伴って従四位下・内蔵頭に叙任されると共に冷然院別当に任ぜられるが、まもなく(越前守)として地方官に転任する。同年12月には兄・弘貞と共に坂田朝臣から南淵朝臣に改姓している。のち、時期は不明ながら(越中守)に任ぜられるなど、淳和朝では地方官を務めた。天長10年(833年)従四位上。
仁明朝に入り、承和4年(837年)(備前守)次いで大宰大弐に任ぜられるが、仁愛を以て務めとなし庶民に慕われたという[1]。またこの間に派遣・帰国した第19次遣唐使への対応にもあたっている。承和10年(843年)任期を終えて帰京したのち刑部卿に任ぜられるが、間もなく希望して地方官である(播磨守)に転任、承和12年(845年)正四位下・(近江守)に叙任された。
70歳を過ぎて辞官を請い、文徳朝では仁寿元年(851年)国の老臣として遙任で(下野守)のち(因幡守)・因幡権守を歴任した。天安元年(857年)10月12日(卒去)。享年81。最終官位は正四位下行因幡権守。
官歴
『六国史』による。
- 延暦25年(806年) 4月:少外記
- 大同4年(809年) 4月:民部少丞
- 時期不詳:正六位上
- 弘仁4年(813年) 正月7日:従五位下。正月10日:(但馬介)
- 弘仁8年(817年) 閏4月:民部少輔
- 弘仁9年(818年) 2月:治部少輔。日付不詳:兼(備後守)
- 弘仁10年(819年) 正月7日:従五位上。6月:権左少弁
- 弘仁11年(820年) 5月:右近衛少将。8月:右中弁
- 弘仁12年(821年) 正月:左中弁。正月:蔵人頭[2]。6月:正五位下。6月:治部大輔
- 弘仁13年(822年) 日付不詳:解蔵人頭[2]
- 弘仁14年(823年) 4月:従四位下。日付不詳:内蔵頭。日付不詳:冷然院別当。日付不詳:(越前守)。12月:坂田朝臣から南淵朝臣に改姓
- 天長4年(827年)以前:見(越中守)[3]
- 天長10年(833年) 正月7日:従四位上
- 承和4年(837年) 春:(備前守)。7月19日:大宰大弐
- 承和10年(843年) 2月10日:刑部卿
- 時期不詳:(播磨守)
- 承和12年(845年) 正月7日:正四位下。正月11日:(近江守)
- 仁寿元年(851年) 正月11日:(下野守)
- 仁寿3年(853年) 10月16日:(因幡守)
- 斉衡4年(857年)2月16日:因幡権守。10月12日:(卒去)(正四位下行因幡権守)