人物
平安時代末より代々熱田大宮司を継承する熱田大宮司家に、(千秋加賀守季平)の子として生まれる。武家としては当時尾張国に台頭しつつあった織田信秀に従う。天文年間、信秀が尾張の軍勢を率いて美濃の斎藤利政を攻撃した際、これに従軍した。織田軍は斎藤氏の居城稲葉山城近くまで攻め寄せたが、斎藤軍の夜襲を受けて敗北し、織田信康、(織田因幡守)、青山信昌、寺沢又八らとともに、季光も戦死した(加納口の戦い)。また、連歌師の宗牧が季光の戦死から2ヶ月後に信秀のもとに訪れているが、「大宮司濃州においてうち死に」ゆえ、連歌の開催を遠慮しようとしている(『東国紀行』)。
季光はかつて悪七兵衛景清が所持していたという「あざ丸」という脇差を所持しており、戦死した際も佩いていた。この刀はその後、斎藤方の武将(陰山掃部助)の手に渡ったが、同年冬に斎藤軍が大垣城を攻めた際、掃部助は戦闘で両眼を失う重傷を得た。次いで所持した丹羽長秀も眼病を得たため、刀は熱田社へ返されて奉納されている。