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加賀爪 忠澄(かがつめ ただすみ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・旗本。加賀爪上杉家7代当主。武蔵国高坂館主。姓は加々爪とも表記する。
略歴
天正14年(1586年)、加賀爪政尚の子として誕生。徳川秀忠の家臣として「忠」の字を拝領している。関ヶ原の戦いや大坂の陣に勲功を立てて従五位下民部少輔となり、5,500石を知行して目付・江戸南町奉行・大目付などを歴任して加増を重ね、最終的には9,500石に加増された。また、慶長17年(1612年)には、長崎にて来航禁止のマカオ船が着航したのを目撃、船を焼いたとも伝えられる。
寛永18年1月29日(1641年3月10日)、江戸京橋桶町から大火災(桶町火事)が発生。大目付の忠澄は消火活動の総指揮を執ったが、陣頭指揮中に煙に巻かれて殉職した。市中の充分な消火体制が講じられていなかった当時、大規模な火災となった同火災では他にも、大名として火消役((所々火消))に任じられていた相馬藩主の相馬義胤が消火作業中に落馬して重傷を負っている。加賀爪の殉職などの被害を受け、幕府は江戸市中の火災対策を本格化させることとなり、2年後の寛永20年(1643年)に(大名火消)の制度が制定された。
家督は子の直澄が継いだ。
「江戸南町奉行」
寛永9年(1632年)、忠澄は江戸町奉行に任じられた。前年の寛永8年(1631年)、堀直之も同役の江戸町奉行に任じられている。当時の江戸町奉行は2人制の月番交代制[1]であり、堀直之は呉服橋に役宅を賜り北町奉行と呼ばれ、忠澄は常盤橋に役宅を賜り南町奉行と呼ばれた。以降、江戸町奉行の両者はそれぞれ北町奉行、南町奉行と呼ばれるようになった。すなわち名称は管轄の地域を指すのでなく、忠澄と堀に与えられた役宅それぞれの位置、呉服橋と常盤橋の位置関係が由来である。