» www.Giftbox.Az - Bir birindən gözəl hədiyyə satışı
ウィキペディアランダム
毎日カテゴリ
共有: WhatsappFacebookTwitterVK

功徳使

功徳使(くどくし)は、中国古代の官職名。寺院道観創設・修復や訳経写経などの皇帝仏教道教修行、いわゆる「修功徳」、及び長安洛陽僧尼管理司法を行う(使職)を意味する。厳密には「修功徳使」。代・五代に多く、律令に規定のない令外官

概要

沿革

功徳使は、使職としては大暦9年(774年)の、都中の寺院の修復を担当した「京城寺観修功徳使」(外功徳使)を最初とし、4年後の大暦13年(778年)には、それとは別の、翻経事業などを担当した内功徳使が設置されている。

当初は創設以前からの皇帝の修功徳行の代理であったため、宦官がその任に付くことが多かった。

しかし、その後の宦官(魚朝恩)への権力集中に懲りた代宗により、宦官から軍事権を取り上げ、結果として禁軍将軍が功徳事業を担当することになったところ、専門外であるとして、大暦14年(779年)禁軍将軍(劉崇訓)の奏上により、いったん廃止された。

その後、徳宗代になると、貞元4年(788年)に復活、宦官の(王希遷)、(寶文場)の2名が左右街功徳使として担当することとなった。

五代に入ると河南尹(副都留守)との兼務となり、官僚が任じられるようになった。

兼務以降は尹職が大官であることもとあり、官僚から王族・皇族が任命されるようになった。その後、尹職に吸収されて独自の使職として役目を終えた。

職制

京城寺観修功徳使は、貞元4年(788年)に左右街功徳使に別れ、その下に功徳副使、更にその下に功徳判官がおかれた[1]

興元元年(784年)に、のちに(左右神策軍護軍中尉)となる(監神策左右廂兵馬使)が新設されると、それぞれ属僚(副使、判官)も含めて兼務官となり、禁軍の武力を背景に持つようになった。

元和2年(807年)2月以降にそれまで祠部が管轄していた僧侶・尼僧・道士・女冠の管理が功徳使に移管されて(左右街僧録)・(左右街道録)制となった。但し、これは両都だけのようで地方は、以前と同様、太守の副官である(功曹参軍)が管轄した。

副都制下では貞元4年に副都洛陽(開封)に功徳使が置かれた(但し、洛陽尹と兼務)。

開成5年(840年)には、(左右街功徳巡院)なる下部組織があったことが、円仁の『入唐求法巡礼行記』に見える[1]

功徳使以前の修功徳担当者

功徳使以前の修功徳担当者として、山崎宏は宦官筆頭かつ(驃騎大将軍)で執務エリア内に修功徳処があった高力士を挙げている[2]

歴代功徳使

代宗治下
  • (史元琮)(李元琮) - 武官、大暦9年(774年[3]
  • (李憲誠) - 宦官、大暦13年(778年[4]
  • (劉崇訓) - 武官、大暦14年(779年)閏5月辞任[5]
徳宗治下
  • (王希遷) - 宦官、貞元4年(788年)功徳使復活[5]
  • (寶文場) - 宦官、貞元5年[4]
  • (霍仙鳴) - 宦官、貞元12年[4]
  • (第五守亮) - 宦官、貞元16年[4]
  • (孫栄義) - 宦官、貞元19年[6](右街功徳副使からの昇格)
憲宗治下
  • (吐突承サイ)[王+崔] - 宦官、元和4年(809年)兼務[7]
  • (梁守謙) - 宦官、元和5年(810年)任命[8]
敬宗治下
  • (劉弘規) - 宦官、宝暦年間(825-827年)任命[9]
宣宗治下
  • (仇士良) - 会昌3年6月辞任[10]
  • (楊欽義) - 神策軍中尉、会昌3年6月就任[10]

五代十国

後唐
  • (王サン)[王+贊]- 官僚(※但し、(開封尹)と兼務)[11]
後晋
南唐
後周
  • 柴栄 - 皇族(※但し、(開封尹)と兼務)[13]
呉越

  • 太宗 (宋) - 皇族(※但し、開封尹と兼務)
  • (趙延美) - 皇族・魏王、(太平興國7年)(982年)西京功徳使(※但し、西京留守と兼務)

僧侶功徳使

特定の寺院の修復のため、僧侶が特定寺院限定の功徳使に任じられた事例もあった。

参考文献

  • 山崎宏「唐代に於ける僧尼所隷の問題」(『支那仏教史学』3-1号,1919年)
  • 塚本善隆「唐中期以来の長安の功徳使」(『東方学報』4号,1933年)
  • (滋野井恬)「五代の功徳使に關する管見」(『東方宗教』16号,1960年)
  • 滋野井恬「宋代功徳使制度管窺」(『大谷学報』41-1号,1961年)
  • 滋野井恬「五代の功徳使について」(『印度学仏教研究』18-2号,1970年)
  • (菊池京子)「<研究ノート>俗別当の成立 - とくに"官人"俗別当について - 」(『史林』51号,1970年)
  • (室永芳三)「唐長安の左右街功徳使と左右街功徳巡院」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』30号、1980年)
  • (盧在性)「唐徳宗と功徳使」(『東方宗教』79号,1992年)
  • (趙雨樂)「唐代における内諸司使の構造 - その成立時點と機構の初歩的整理 - 」(『東洋史研究』50-4号,1992年)
  • (中田美絵)「八世紀後半における中央ユーラシアの動向と長安仏教界 - 徳宗期『大乗理趣六波羅蜜多経』翻訳参加者の分析より -」(『関西大学東西学術研究所紀要』44号、2011年)

関連項目

  • (観軍容使)
  • (僧統)
  • (官人)俗別当 - 功徳使に倣ったとされる[14]

脚注

  1. ^ a b (室永芳三)「唐長安の左右街功徳使と左右街功徳巡院」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』30号、1980年)
  2. ^ a b 山崎宏「唐代に於ける僧尼所隷の問題」(『支那仏教史学』3-1号、1919年)
  3. ^ 「大唐貞元続開元釈教録巻上」(『大正蔵』55巻、p755.b11)
  4. ^ a b c d 塚本善隆「唐中期以来の長安の功徳使」(『東方学報』4号,1933年)
  5. ^ a b 盧在性「唐徳宗と功徳使」(『東方宗教』79,1992年)
  6. ^ 室永芳三「唐長安の左右街功徳使と左右街功徳巡院」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』30号、1980年)
  7. ^ 『資治通鑑』巻237「元和四年項」
  8. ^ (趙雨樂)「唐代における内諸司使の構造 - その成立時點と機構の初 歩的整理 - 」(『東洋史研究』50-4,1992年)
  9. ^ (趙雨樂)「唐代における内諸司使の構造 - その成立時點と機構の初歩的整理 - 」(『東洋史研究』50-4,1992年)
  10. ^ a b 山崎宏「唐代に於ける僧尼所隷の問題」(『支那仏教史学』3-1号,1919年)
  11. ^ 滋野井恬「五代の功徳使に關する管見」(『東方宗教』16号,1960年)
  12. ^ a b c 滋野井恬「五代の功徳使について」(『印度学仏教研究』18-2,1970年)
  13. ^ a b 滋野井恬「五代の功徳使に關する管見」(『東方宗教』16号,1960年)
  14. ^ 菊池京子「<研究ノート>俗別当の成立 - とくに"官人"俗別当について - 」(『史林』51,1970年)
ウィキペディア、ウィキ、本、library、論文、読んだ、ダウンロード、自由、無料ダウンロード、mp3、video、mp4、3gp、 jpg、jpeg、gif、png、画像、音楽、歌、映画、本、ゲーム、ゲーム。