| この項目では、五代十国時代の北漢の皇帝である劉鈞について説明しています。その他の用法については「劉鈞 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
劉 鈞(りゅう きん)は、十国北漢の第2代皇帝。廟号は睿宗。世祖劉旻の次男。
生涯 史書の記載によれば初名は劉承鈞で、穏やかな性格で読書を好み、書法に通じていたとされる。乾祐7年(954年)、世祖の崩御に伴い、遼より漢(北漢)の皇帝に封じられた。即位に伴い劉鈞と改名し、遼帝に対しては「男」と称し、遼からの下詔では「児皇帝」と表記されている。
即位後は国力の充実に努め、(郭無為)を宰相に任じ、南方への軍事行動を削減するなどの政策を実施した。さらに遼に対しても世祖の代に比べ独立志向を強め、その援助が削減される傾向があった。また957年には天会と改元している。
天会12年(968年)、病により崩御した。享年43。姉妹の子から養子にした劉継恩が皇位を継承した。
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