出自 代々「藤右衛門尉」を称す(前波氏)の嫡流の当主。前代・(前波吉当)までの前波氏嫡流当主が実名に「吉」を使っているのに対し、景定や嫡子・景当は朝倉氏当主から拝領した「景」の字を用いている[3]。
略歴 朝倉景連、小泉長利、河合吉統らと共に一乗谷奉行人を務めた[1]。天文年間(天文8年、1539年)頃?から主に奉行人として足利義晴への奏者を務めるなど、評定衆として家中で重きを成した。また、奉行人を務める傍ら、たびたび合戦に出陣したらしく、奉行人連署状に花押の代わりに「在陣」と記したものが残っている。永禄5年(1562年)12月の奉行人連署状を最後に名が消え、一旦、前波氏自体の名が奉行人から見られなくなった後、永禄8年(1565年)から嫡子・景当が連署状に名を連ねるため、この間に没したと推測される。
脚注 - ^ a b 山本 大、『戦国大名家臣団事典 西国編』、新人物往来社(1981)
- ^ 景定の前代に藤右衛門尉を称していることからの推定。参考文献「越前朝倉氏の研究」p.312-315など。
- ^ 朝倉氏の根本被官の多くが実名に「吉」を使っており、「景」は朝倉一族である同名衆と同じ家格を与えられたことを意味する。前波氏の庶流は前波吉継のようにその後も「吉」を使っている。参考文献「越前朝倉氏の研究」p.309-312など。
出典 - 松原信之『越前朝倉氏の研究』(吉川弘文館、2008年) (ISBN 978-4-642-02876-9)
- 松原信之編 『朝倉義景のすべて』(新人物往来社、2003年) (ISBN 4-404-03133-5)
- 水藤真『朝倉義景』(人物叢書・吉川弘文館、1986年)(ISBN 4-642-05060-4)
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