生涯
元亀2年(1571年)[1]、伊勢中山城主[2]分部光嘉(のちに伊勢国上野藩初代藩主)の長男として、奄芸郡中山村(現在の三重県津市栗真中山町)に誕生[1]。母は(分部光高)養女((分部光恒)娘)[1]。
分部家は長野家(長野工藤氏)に仕えた家である。織田信長に従った父とともに、一時期長野家を継いでいた信長の弟・織田信包(長野信良)に属し[1]、その後は豊臣秀吉に仕えて[1]、その馬廻となった。
慶長4年(1599年)3月29日[1]、29歳で早世[1]。光勝の甥((長野正勝)の子)にあたる光信が分部家の嗣子となった。
備考
- 光嘉は早世した光勝の菩提を弔うため、(光勝寺)(津市河芸町上野、臨済宗妙心寺派)を創建した[3]。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 『寛政重修諸家譜』巻第三百九十二
- 『寛政重修諸家譜 第三輯』(国民図書、1923年) (NDLJP):1082714/12