円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日)- 寛平3年10月29日(891年12月4日))は、平安時代の天台宗の僧。天台寺門宗(寺門派)の宗祖。諡号は智証大師(智證大師、ちしょうだいし)。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。
円珍 | |
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弘仁5年3月15日 - 寛平3年10月29日 (814年4月8日 - 891年12月4日) | |
号 | (金剛名号)智慧金剛 |
諡号 | 智証大師(醍醐天皇より) |
生地 | 讃岐国 |
宗派 | 天台宗寺門派 |
寺院 | 園城寺 |
師 | 義真 |
著作 | 法華論記ほか |
宝号は「南無大師智慧金剛(なむだいしちえこんごう)」である。
概説
弘仁5年(814年)、讃岐国(香川県)金倉郷に誕生。多度郡弘田郷の豪族・佐伯一門のひとり。俗姓は和気。字は遠塵。空海(弘法大師)の甥(もしくは姪の息子)にあたる。生誕地は善通寺から4kmほどのところ。幼少から経典になじみ、15歳(数え年、以下同)で比叡山に登り義真に師事、12年間の籠山行に入る。
承和12年(845年)、役行者の後を慕い、大峯山・葛城山・熊野三山を巡礼し、修験道の発展に寄与する。承和13年(846年)、延暦寺の学頭となる。仁寿3年(853年)、新羅商人の船で入唐、途中で暴風に遭って台湾に漂着してから、同年8月に福州の連江県に上陸した。以後、天台山国清寺に滞在しながら求法に専念。斉衡2年(855年)には長安を訪れ、真言密教を伝授された。
天安2年(858年)、唐商人の船で帰国。帰国後しばらく金倉寺に住み、寺の整備を行っていた模様。その後、比叡山の山王院に住し、貞観10年(868年)に延暦寺第5代座主となる。これに先立つ貞観元年(859年)に園城寺長吏(別当)に補任され、同寺を伝法灌頂の道場とした。後に、比叡山を山門派が占拠したため、園城寺は寺門派の拠点となる。
寛平3年(891年)10月29日、入寂。享年78歳。三井寺には、円珍が感得したとされる「黄不動」「新羅明神像」等の美術品の他、円珍の手による文書が他数残されており、日本美術史上も注目される。
著作
著作は90を数え、円珍の教えを知る著作である「法華論記」「授決集」の他、自身の書いた入唐旅行記の「行歴抄」など著名である。『智証大師全集』全3巻がある。「行歴抄」では、円載との確執が描写されている[1]。
肖像
円珍は、園城寺では宗祖として尊崇され、同寺には国宝の彫像をはじめ、多くの円珍像が伝わる。同寺唐院大師堂には「中尊大師」「御骨大師」と称する2体の智証大師像があり、いずれも国宝に指定されている。いずれの像も頭頂が尖り、頭部の輪郭が卵型を呈する独特の風貌に特徴がある(これを「霊蓋」(れいがい)といい、左道密教では未来を予知できる能力を備えるとされ、非常に崇められた。反面、その験力を得ようと切り取られることもあったため、入唐時に諭され非常に警戒された)。
円珍の書
書風は「枯枝のような」と評される独特のものである。真跡は20余点現存し、その代表的なものは次のとおりである。
- 僧正遍照宛円珍書状(国宝)[2]
- 請伝法公験奏状案(でんぽうくげんをこう そうじょうあん)(国宝)
脚注
- ^ 王勇『唐から見た遣唐使』講談社1998
- ^ (大阪市立美術館, サントリー美術館 & 福岡市博物館 2008, p. 69(写真掲載))
関連項目
参考文献
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- 佐伯有清『円珍』 吉川弘文館 人物叢書、日本歴史学会編 新版1990年
- 小林隆彰『智証大師円珍』 東方出版、1990年
- 小山田和夫『智証大師円珍の研究』 吉川弘文館、1990年 大著
- 佐伯有清『智証大師伝の研究』 吉川弘文館 、1989年 大著
- 木村卜堂編著『日本と中国の書史』 - 社団法人 日本書作家協会発行
- 大阪市立美術館; サントリー美術館; 福岡市博物館『智証大師帰朝1150年記念特別展 国宝三井寺展』NHK大阪放送局・NHKプラネット近畿・毎日新聞社、2008年。
- 小野勝年『入唐求法行歴の研究』法藏館、初版1982年、再刊2014年
- 鈴木正信「『円珍俗姓系図』の構造と原資料」加藤謙吉編『日本古代の王権と地方』大和書房、2015年
- 鈴木正信「『円珍俗姓系図』の成立過程と系譜意識」『古文書研究』第80号、2015年