生涯
宝永5年(1708年)、信濃飯山藩主(のちに武蔵岩槻藩主)・永井直敬の六男として生まれる(生年には宝永6年(1709年)1月7日説もある)。享保20年(1735年)に高遠藩の第2代藩主・内藤頼卿に実子がなかったため、末期養子として迎えられ家督を継いだ。
元文4年(1739年)に大坂加番、延享3年(1746年)から安永4年(1775年)まで奏者番を務めている。藩政では財政問題のため、元文2年(1737年)12月に藩士に対して従来の金給制から俸禄制に改めた[1]。他にも支給方法の改正などを行なっている[2]。
安永5年(1776年)、養子の頼尚に家督を譲って隠居する。安永9年(1780年)5月28日(異説として5月27日)に死去。享年73。
系譜
父母
正室
- 松平康豊の娘
子女
- 内藤吉十郎
養子