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歴史
大浦氏当主大浦盛信・政信兄弟の弟盛純が領地兼平村に(兼平館)を築き、その名を姓にしたことに始まる(南朝の遺臣・兼平中書雅則の名跡を継がせたとの説もある)。盛純の嫡男綱則は、森岡信元・小笠原信浄と並び大浦三老の一人として、主君津軽為信の津軽統一戦の際に数々の武功を挙げた。その孫信孝の代には、「津軽」姓も許された。しかし、(船橋騒動)にて新参者の船橋長真・乾安儔らと対立した。その結果、寛永13年(1636年)1月喧嘩両成敗として乳井建定と共に長州萩藩毛利家お預けとなり、信孝が同地で没したため、本流は断絶となった。後に綱則の末子(源八)が後を継ぎ、再興された。
歴代当主
系図
詳細は「津軽氏」を参照
脚注
参考文献
- 太田亮「国立国会図書館デジタルコレクション 兼平 カネヒラ」『姓氏家系大辞典』 第1、上田萬年、三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、1617頁。(全国書誌番号):(47004572) 。 ( )
- 『青森県人名大事典』、1969年、東奥日報社