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略歴
天文12年(1543年)、八戸氏庶流である(新田行政)の子として誕生。17代当主・(八戸勝義)の養子となる。
(三戸南部氏)を南部一族の中の宗家的地位に高めた南部晴政の死後に嫡男・晴継が急死して家督争いが起こると、南部信直の擁立に尽力した。この時、自身も南部一族であったため当主に擁立されかけたというが、北信愛の説得で辞退したという。以後は信直の右腕として活躍した。
天正18年(1590年)の小田原征伐では、信直に豊臣秀吉の下への参陣を薦めたという。政栄自身は信直に託されて三戸城の留守居を務めた。眼疾患で盲目だったという。