経歴
父・陽成天皇の譲位後に生まれる。延喜3年(903年)及び延喜7年(907年)当年巡給により年給を賜る。延長7年(929年)10月に彼の四十の算賀に際して妻の修子内親王は紀貫之に(屏風歌)を作らせた。承平6年(936年)3月には右大臣藤原仲平らともに醍醐寺に塔の心柱を施入した。天慶6年(943年)7月26日(薨去)。享年54。
人物
色好みの風流人として知られ『大和物語』や『今昔物語集』に逸話が残るが、特に宇多院妃の藤原褒子との恋愛が知られる。また、よく通る美しい声をしており、元日の奏賀の声は非常にすばらしく、大極殿から鳥羽の作道までその声が聞こえたという[1]。
『後撰和歌集』(7首)以下の勅撰和歌集に和歌作品20首が入集[2]。『(元良親王集)』という歌集も後世になって作られた。『小倉百人一首』には元良親王の作として、以下の和歌が採られている。
わびぬれば 今はた同じ 難波なる 身をつくしても 逢はんとぞ思ふ — 小倉百人一首20
系譜
『尊卑分脈』による。