倉茂 武(くらしげ たけし、1908年3月15日[1] - 1998年2月1日[2])は、「競輪の生みの親」とも称される人物。通称は倉茂 貞助(くらしげ ていすけ[3])。新潟県吉川町出身[1]。
大宮競輪場で行われるGIII((記念競輪))は、2002年(平成14年)1月の53周年大会から「倉茂記念杯」と銘打っている[1]。
来歴
陸軍騎兵隊員を経て、戦後の1947年(昭和22年)9月、(海老澤清)(海老澤清文)と国際スポーツ株式会社を設立。「報償制度併用による自転車競走」という企画を考えた。その実現には法制化が必要なため、同年10月に自転車競技法期成連盟を結成した[1]。
この企画の草案は当時の国営競馬制度に範をとったもので、施行者は政府と県、最高配当を100倍に制限、控除率は18%などとしていた。しかし、GHQと協議し政府を施行者にすべきではないなどの要望を取り入れて修正(当時「競犬法[注 1]」「ハイアライ法」という競合ギャンブル法案が提出されていた影響もあったといわれる)、控除率も25%とし、1948年(昭和23年)4月にGHQの認可を得た[4]。
そして同年8月に自転車競技法が成立、11月20日[5]に国体会場でもあった三萩野競輪場(現・小倉競輪場)[6]において第1回の競輪競走が開催された[7]。倉茂は自転車振興会連合会の設立にも携わり、常務理事に就任した。後継団体となる日本自転車振興会(現・JKA)の参与、理事、再び参与、相談役を歴任した[1]。また、1964年東京オリンピックの大会組織委員会の幹事を務めている。
1983年(昭和58年)11月には、通商産業大臣賞を受賞した[1]。
主な著書
脚注
- 出典
- 注
関連項目
- (海老澤清)(海老澤清文) - 川崎競輪場の記念競輪は2003年大会から「桜花賞典・海老澤清杯」と銘打っている。
- (競輪#競輪の誕生)