倉吉市立成徳小学校(くらよししりつ せいとくしょうがっこう)は、鳥取県倉吉市仲ノ町にある公立小学校。
倉吉市立成徳小学校 | |
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2008年時点の児童玄関 (2017年の建替により現存せず) | |
北緯35度25分50秒 東経133度49分27秒 / 北緯35.430684度 東経133.824267度座標: 北緯35度25分50秒 東経133度49分27秒 / 北緯35.430684度 東経133.824267度 | |
過去の名称 | 開豪学校 成徳小学校 倉吉尋常小学校 成徳尋常小学校 成徳尋常高等小学校 成徳国民学校 倉吉町立成徳小学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 倉吉市 |
校訓 | 自学・自治・創造 |
設立年月日 | 1873年 |
共学・別学 | 男女共学 |
学期 | 3学期制 |
学校コード | B131210000496 |
所在地 | 〒682-0824 |
鳥取県倉吉市仲ノ町733番地 | |
外部リンク | 公式サイト |
(ウィキポータル 教育) ウィキプロジェクト 学校 |
沿革
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略歴
池田氏の家老荒尾志摩家の陣屋跡に学校を置き[1]、尋常小学校としたのが始まり。(その名残として「陣屋のシイ」があり、市の保存樹に指定されている。また、石垣も陣屋時代のものが現存している。)
年表
- 1873年(明治6年)2月20日 - 開豪学校開校。
- 1874年(明治7年)4月 - 一貫小学を分離独立、神坂支校を設立。
- 1875年(明治8年)9月19日 - 神坂支校独立し温恭校と改称。
- 1878年(明治11年)6月 - 開豪・温恭を合併して成徳小学校と改称。
- 1884年(明治17年)8月 - 一貫小学を分校とする。
- 1887年(明治20年)4月1日 - 一貫分校を本校に併合、倉吉尋常小学校と改称。
- 1891年(明治24年)1月20日 - 成徳尋常小学校と改称。
- 1894年(明治27年)4月1日 - 成徳尋常高等小学校と改称。
- 1909年(明治42年)5月8日 - 明倫小学校を分割する。
- 1941年(昭和16年)4月1日 - 国民学校令により成徳国民学校と改称。
- 1944年(昭和19年)9月20日 - 神戸市河池国民学校84名疎開滞在。
- 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革により倉吉町立成徳小学校と改称。
- 1953年(昭和28年)10月1日 - 市制施行により倉吉市立成徳小学校と改称。
- 2023年(令和5年)4月1日 - 灘手小学校と統合し、現校舎にて新たに成徳小学校を設立[2]。
校章
前述の荒尾家の家紋『九曜星』の影をとった『影九曜』が使われている[1]。竹輪の食べさしに似ていることから、俗に「竹輪の食いさし」とも呼ばれる。
校舎
現在の校舎は西校舎と東校舎に分かれており、鉄筋コンクリート造である。東校舎はかつての「白亜の殿堂」(後述)が再現されており、2階建てである。西校舎はかつての南校舎を移築した3階建ての建物で、玄関上部には打吹天女の壁画絵が掲げられている。
昭和前半期までの校舎(右写真)は、「白亜の殿堂」と呼ばれていたが、伊勢湾台風の被害を受けたため解体、新築された。このとき建てられた校舎は2008年夏に耐震工事がなされたが、2017年に現校舎への建て替え工事が行われた。
校歌
統合の経緯
児童数の減少と統廃合構想
かつては1学年に複数クラスが設置されていたが、現在は1クラスとなっている。2016年時点で児童数は127人。少子化の煽りを受け減少傾向にあり2020年以降には100人未満になることが予想されている[4]。
こうした状況を受け、倉吉市は小学校の適正配置を検討しており、成徳小学校は明倫小学校・灘手小学校との統合が構想され、説明会が実施された[5]。その結果、先行して2023年4月に灘手小学校を統合することが決定した。
学校名を巡る混乱
2021年8月、両小学校の統合準備委員会が発足[6]。2022年4月より統合によって新たに設立される小学校の名称を公募し、同年6月に「至誠小学校」を候補とすることを公表した[7]。
ところが、市議会での議論の中で、準備委員会の選定過程が以下のようなものと判明した[8]。
- 公募の応募総数341件のうち、半数近い150件が「打吹小学校」であり、「至誠小学校」は1件であった。
- 委員会は成徳地区・灘手地区の委員各8人で構成されており、校名の投票結果は、成徳地区側が推した「至誠」、灘手地区側が推した「打吹」がそれぞれ8票の同数であったが、委員長(成徳地区)の決裁により「至誠」と決まった。
- 賛否同数の場合に会議の長に判断を委ねる規定は、長がもともとの評決には加わらないことを前提とすることが一般的であるが(議長決裁の項も参照)、準備委員会の設置要綱はそうなっておらず、事実上委員長が2票分の権限を行使していた。
そのため決定の妥当性に関して不満が噴出。これを受けて広田一恭市長が9月議会で学校名を決定した議案の取り下げを提案したが、市議会はこれを否決し、新学校名を「至誠小学校」とする議案を可決した[9]。
市議会の可決後も「至誠小学校」に反対する市民の声は止まず、2022年12月に反対する市民らにより新校名を決定した市条例の廃止を求める直接請求が行われた[10]。直接請求に基づき議会に提出された条例廃止案は可決され、新校名は振り出しに戻った[11]。
条例廃案を受け、準備委員会は新たに「打吹至誠小学校」を新たな校名とすることを決定した[12]が、これを受けて開催された臨時議会では、「打吹至誠小学校」以外の校名を求める複数の動議が提出され、最終的に「成徳小学校」とする形で条例案が可決された[13]。
一方、公募の時点で準備委員会は「新校名には既存の校名を使用しない」ことを決定していた[14]にもかかわらず市議会でそれが覆されたことに灘手地区側の委員は猛反発し、「本委員会には任せられない、という市議会の意見だと受け止める」として委員会解散を提案。最終的に「解散」の言葉は使われなかったものの、2023年1月20日の会合をもって委員会が「終了」することが決定した[15]。
学校行事
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通学区域
- 住吉町、宮川町、宮川町二丁目、東町、湊町、堺町一丁目、堺町二丁目、堺町三丁目、新町一丁目、新町二丁目、新町三丁目、荒神町、魚町、明治町、明治町二丁目、大正町、大正町二丁目、仲ノ町、東仲町、西仲町、西町、研屋町[16]
進学先中学校
関係者
教員
卒業生
周辺
脚注
- ^ a b “学校紹介 - 倉吉市立成徳小学校”. cmsweb2.torikyo.ed.jp. 2018年12月15日閲覧。
- ^ “新学校名の決定について”. 倉吉市 (2023年1月25日). 2023年2月4日閲覧。
- ^ “田村虎蔵作曲一覧”. わらべ館. 2022年7月20日閲覧。
- ^ 市民シンポジウム資料「倉吉市立小学校適正配置の推進」について(pdf)p.6(2016-08-09)
- ^ 小学校適正配置について(説明会)(pdf)(2017-04-22)
- ^ “統合準備委員会だより 第1号”. 倉吉市. 2023年2月6日閲覧。
- ^ “新学校名候補の決定について”. 倉吉市 (2022年6月8日). 2023年2月5日閲覧。
- ^ 「校歌や校章つくれない小学校 開校まで約4カ月、何が起きているのか」『朝日新聞デジタル』、2022年11月18日。
- ^ “応募わずか1件の名前が採用に…統合新学校名めぐり市議会が紛糾 市長の議案取り下げ請求「不承認」、委員長報告は「否決」”. TBS NEWS DIG (2022年9月22日). 2023年2月4日閲覧。
- ^ “条例廃止求め直接請求 倉吉「至誠小」で住民団体”. 日本海新聞. (2022年12月10日)2023年2月4日閲覧。
- ^ “「至誠小」白紙に 賛成多数 条例廃止を可決 倉吉市議会”. 日本海新聞. (2022年12月23日)2023年2月4日閲覧。
- ^ “成徳小学校・灘手小学校統合の新学校名候補の再決定について”. 倉吉市 (2023年1月13日). 2023年2月5日閲覧。
- ^ “新校名は急転直下「成徳小学校」で決定 わずか1件応募の校名採用で物議…紆余曲折 議論から外れていた現校名で修正動議”. TBS NEWS DIG (2023年1月17日). 2023年2月4日閲覧。
- ^ “統合準備委員会だより 第3号”. 倉吉市. 2023年2月6日閲覧。
- ^ 「統合準備委「終了」 灘手地区委員怒り」『朝日新聞デジタル』、2023年1月23日。
- ^ a b “小・中学校通学区域”. 倉吉市. 2022年7月20日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 倉吉市立成徳小学校