概要
宇喜多氏の家臣であった明石行雄(景親)・守重(全登)父子ら明石氏の居城として天文年間(1532年 - 1554年)に創建されたと考えられているが、(大坂夏の陣)で全登が敗走した後に廃城になったと見られる。 (小川博毅)によると、守重(全登)は、永禄12年前後に保木城で生まれた可能性が高いと指摘している[1]。 現在は土塁、曲輪、堀切、礎石、井戸が遺構として残存しており、岡山市教育委員会が発掘調査を行っている。
交通
脚注
- ^ 小川博毅『史伝 明石掃部―最後のキリシタン武将―』 橙書房、2012年、42-44頁。