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侍政

侍政侍制、さむらいせい、Samuraicracy)は、幕藩体制を幕府と藩の関係においてではなく、「貴族政(Aristocracy)」や「民主政(Democracy)」といった統治形態(政体)との用語上の一律な比較を可能にしつつ「(samurais)」の支配体制ということに重心を置いた言葉であり、併せてパックス・トクガワーナ(すなわち天下泰平)を統治主体たる武士との関係において強調するものである。

解説

日本の江戸時代の平和に哲学的な意義を最初に発見したのは、ロシア出身のユダヤ人でフランスの哲学者である アレクサンドル・コジェーヴである。コジェーヴは良く知られた『ヘーゲル読解入門』の「日本化についての註」の中で次のように述べている。

「私がこの点での意見を根本的に変えたのは、最近日本に旅行した(1959年)後である。そこで私はその種において唯一の社会を見ることができた。その種において唯一のというのは、これが(農民であった秀吉により「封建制」が清算され、元々武士であったその後継者の家康により鎖国が構想され実現された後)ほとんど三百年の長きにわたって「歴史の終わり」の期間の生活を、すなわちどのような内戦も対外的な戦争もない生活を経験した唯一の社会だからである。 [1]

これを受ける形で『自死の日本史』において、パックス・トクガワーナをもたらした侍政の原理が法制に組み込まれた切腹という習俗にあることを詳細に明らかにしたのが、フランスの哲学者日本学者のモーリス・パンゲである。パンゲは、江戸幕府刑法体系を専制的としたシャルル・ド・モンテスキューを引きながらも、その分類によれば幕府の権力武士の関係においては君主政的であり、むしろスパルタに似た(軍事共和政)に近いものとしてその独自性を強調し、[2]さらにはこれが準宗教的な性格を有するものでさえあることを次のように表現している。

日本の「詰め腹」は日本の習俗を写しとったものであった。〈自死〉の道徳というものがあったために、武士階級は、自分たちがなろうとしていたものの姿を、自分に対しても他人に対しても認めさせることができた。国家は自らの行う処罰を武士の徳目に混ぜ合わせることで彼らと手をうったのである。これ以上に安あがりの刑法体系がかつてあっただろうか。人間の生命の無駄使いと言えば無駄使いではある――しかしその機能の適合性たるや何とみごとなものか。罪人を抹殺することでを決裁し、それと同時にまさにそのことによって、罪人の服従と協力を獲得するのであるから。彼は刑罰犠牲者でもなければ執行人でもない。切腹という刑罰の典礼が、罪人を、幼年時代から彼の身体に刻みこまれているを執り行う司祭に変えるのである。[3]


ちなみに両者とは特に関係がないが、パックス・トクガワーナの別の側面として、戦国時代を通して大量に生産、使用された火縄銃を歴史の前面から退けたことを、テクノロジー史上の快挙として注目し『鉄砲を捨てた日本人』を著したのが、アメリカの英米文学の教授で環境保護論者でもあった(ノエル・ペリン)である。ペリンは三島由紀夫に捧げた[4]この著作の最後で、日本人がかつて銃に対してなしたことを、今日世界が核兵器に対してなしうる保証はないとしながら、尚もこの教訓を活かしたその実現に希望を表明している。[5]

脚注

  1. ^ 「(引用つづき)ところで、日本人の武士の現存在は、彼らが自己の生命を危険に晒すことを(決闘においてすら)やめながら、だからといって労働を始めたわけでもない、それでいてまったく動物的ではなかった。「ポスト歴史の」日本の文明は「アメリカ的生活様式」とは正反対の道を進んだ。おそらく、日本にはもはや語の「ヨーロッパ的」或いは「歴史的」な意味での宗教も道徳も政治もないのであろう。だが、生のままのスノビズムがそこでは「自然的」或いは「動物的」な所与を否定する規律を創り出していた。これは、その効力において、日本や他の国々において「歴史的」行動から生まれたそれ、すなわち戦争と革命の闘争や強制労働から生まれた規律を遙かに凌駕していた。なるほど、能楽茶道華道などの日本特有のスノビスムの頂点(これに匹敵するものはどこにもない)は上層富裕階級の専有物だったし今もなおそうである。だが、執拗な社会的経済的な不平等にもかかわらず、日本人はすべて例外なくすっかり形式化された価値に基づき、すなわち「歴史的」という意味での「人間的」な内容をすべて失った価値に基づき、現に生きている。このようなわけで、究極的にはどの日本人も原理的には、純粋なスノビスムにより、まったく「無償の」自殺を行うことができる(古典的な武士の刀は飛行機や魚雷に取り替えることができる)。この自殺は、社会的政治的な内容をもった「歴史的」価値に基づいて遂行される闘争の中で冒される生命の危険とは何の関係もない。最近日本と西洋世界との間に始まった相互交流は、結局、日本人を再び野蛮にするのではなく、(ロシア人をも含めた)西洋人を「日本化する」ことに帰着するであろう。」アレクサンドル・コジェーヴ、上妻精今野雅方訳『ヘーゲル読解入門』国文社、1987年 246-247頁
  2. ^ モーリス・パンゲ著、竹内信夫訳『自死の日本史』(講談社学術文庫、2011年、(ISBN 978-4062920544)) 315頁
  3. ^ 同書 317頁
  4. ^ 平和主義者ではなかったが/銃嫌いであった/故三島由紀夫に捧ぐ」ノエル・ペリン著 川勝平太訳『鉄砲を捨てた日本人』中公文庫 17頁
  5. ^ 同149-151頁

関連項目

外部リンク

  • コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』「日本についての註」の全文[1]
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