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佐久間 貞一(さくま ていいち、弘化3年5月15日(1846年6月8日) - 1898年(明治31年)11月6日)は、江戸時代末期の幕臣、明治時代の実業家。現在の大日本印刷の創業者。幼名は千三郎。
経歴
弘化3年(1846年)5月15日(嘉永元年(1848年)とする説もある[1])、500石の旗本・佐久間甚右衛門の子として生まれる。
戊辰戦争期においては彰義隊に加盟していたが、隊から選抜されて徳川慶喜の蟄居先の水戸行きに随行している間に上野戦争が勃発し、本隊が壊滅する。奥羽越列藩同盟と合流すべく美賀保丸に乗船したが暴風の為に静岡へ流され、実戦には加わらなかった。
明治朝においては財界に転身し、明治9年(1876年)、(宏仏海)(曹洞宗僧侶)、大内青巒、(保田久成)(佐久間の義兄)らとの共同出資で秀英舎(大日本印刷の前身)を創業する。その他、東京板紙会社、大日本図書、日本吉佐移民会社(日本郵船社長吉川泰次郎と1891年に設立した民間初の移民会社で、主に南洋への鉱山・砂糖労働者の契約移民送出を業務とした[2])、国民貯蓄銀行などの経営に携わったり、牛込区議会議員、東京市会議員、商工会議所議員など、政財界の要職を歴任するなどした。明治30年(1897年)には労働組合期成会評議員となり、労働組合の結成や工場法の制定を主張し、「日本のロバート・オウエン」とも称された[1]。
墓所は円融寺。