佐々木 貞宗(ささき さだむね)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将・御家人。佐々木氏支流京極氏3代当主。京極貞宗とも。
略歴
弘安10年(1287年)、佐々木宗綱の四男として誕生。母は(佐伯左衛門尉頼綱)の娘で、(祐信)・(時綱)の同母弟[2]。北条氏得宗家当主(鎌倉幕府第9代執権)の北条貞時より偏諱を受けて[6]貞宗と名乗る。
永仁5年(1297年)9月20日に父が死去[2][3][4]、長兄・祐信は父の意に叶わなかったとされ[2][3][4]、次兄・時綱は父に先だって17歳で早世していた[2][3][4]ため、家督を継ぐ[2]。その後、嘉元3年(1305年)5月8日、死去。享年19[2]。
死因は同年に起きた嘉元の乱で北条宗方の討手として参戦した際の戦死とされている[注釈 1]。
同族の(高島行綱)(高島氏)の娘を室としていて[2][3]一人の女子があったとされる[4][3]が、跡を継ぐ男子が無かった[8]ため、従兄で姉妹の夫でもある宗氏を経て[2]、宗氏と姉妹との間に生まれ、貞宗の養子となっていた甥の高氏が最終的に家督を継承した。
脚注
注釈
出典
- ^ 『寛政重修諸家譜』には「弘安十年生る」と明記されており、享年を基に没年から算出してもこれに一致する。
- ^ a b c d e f g h i j k l 『寛政重修諸家譜』
- ^ a b c d e f g h i 『尊卑分脈』
- ^ a b c d e f g 『系図纂要』
- ^ a b 細川 2000, p.302 脚注(8).
- ^ 紺戸 1979, p. 21。紺戸によれば、当初嫡子であったと考えられる兄・時綱も得宗家(時宗または貞時)から「時」の字を受けたようである。
- ^ 安田 1990, p. 242, 勝山清次「佐々木時清」.
- ^ 『尊卑分脈』の付記に「雖為嗣嫡依無男子不継之」とある。