生涯
伊達宗遠の子。天授3年/永和3年(1377年)に家督を相続。
天授6年/康暦2年(1380年)頃から、父・宗遠と出羽国置賜郡に侵攻し、元中2年/至徳2年(1385年)には長井氏を滅ぼして、置賜を伊達氏の拠点とした。以降、奥州仕置まで200年余りにわたって、置賜は伊達氏の支配下に置かれた。
応永7年(1400年)、鎌倉公方・足利満兼が弟の満貞(稲村公方)と満直(篠川公方)を奥州に派遣し、伊達家に対して領土割譲を求めてきた事を拒み、大崎氏などと同盟して鎌倉方の結城満朝(白河満朝)や上杉氏憲と戦った(伊達政宗の乱)。
応永9年(1402年)、鎌倉府との抗争により出羽国の諸氏(寒河江氏・白鳥氏など)に陸奥国苅田城(宮城県白石市?)を包囲される[1]。同年出羽高畑城(現在の山形県高畠町)に入り、応永12年(1405年)に同地で没した[2](直ちに本拠地に復帰し、応永13年後半から応永14年3月ころに没したという研究もある。[3])。
死後
事績から政宗は伊達家中興の祖として称えられるようになり、初代陸奥仙台藩主となる藤次郎政宗は、この中興の祖にあやかり命名された。
系譜
脚注
- 出典
- 寒河江市史編さん委員会 『寒河江市史 上巻』 1994
- 東京大学史料編纂所データベース