伊東 祐賢(いとう すけかた、寛文6年(1666年)[1] - 宝永5年3月8日(1708年4月28日))は江戸時代初期の旗本寄合席。諱は祐賢。幼名は松亀。通称は采女。官位は従五位下志摩守。父は伊東祐豊。母は原氏。正室は酒井忠経 (兵部)の娘。子は伊東祐詮、娘(伊東祐連正室)、石川豊故。最終的な石高は近江国栗太郡、甲賀郡、野洲郡、滋賀郡のうち5000石。日向国飫肥藩主家伊東家分家で祐豊系の旗本伊東家第2代目。
生涯
祐豊の4男として出生。母は原氏とされるが、父は正室に内藤政長の娘、継室に朝倉宣正の娘。継々室に三宅康盛の娘を迎えている。4男かつ庶子であったが、兄たちが早世したこともあり、寛文6年(1666年)に父が死去すると同年12月10日(1669年1月12日)に3歳で父の家督と家禄の知行3000石および蔵米2000俵を継ぐ。
延宝3年(1675年)に徳川家綱に初御目見えを済ませる。また延宝9年(1681年)に刊行された顕正系江戸鑑の御寄合衆に「四千五百石 伊東采女 にしのくほ」と掲載されている。
貞享元年10月晦日(1684年12月6日)に父同様に小姓に就任し、貞享4年12月18日(1688年1月20日)に従五位下志摩守に叙任される。元禄2年4月2日(1689年5月20日)に家禄のうち知行3000石を蔵米に改める。これにより、家禄は全て蔵米となり、知行地の日向国南方村と松永村は天領となる。また同年4月27日(1689年6月14日)に小姓を免じられ、元禄5年(1692年)に小姓に復す。元禄6年4月23日(1693年5月27日)に中奥小姓に転じ、同年11月14日(1693年12月10日)に中奥小姓を退いて寄合となる。
元禄10年7月26日(1697年9月12日)に荻原重秀主導で行われた元禄地方直により、蔵米5000石を近江国栗太郡、甲賀郡、野洲郡、滋賀郡のうち5000石に改められる。
脚注
- ^ 寛政重修諸家譜に記載される家督相続年からの逆算
参考文献
- 『新訂寛政重修諸家譜 第14』(続群書類従完成会、編集顧問、高柳光寿、岡山泰四、斎木一馬。昭和39年(1964年)初版)
- 寛政重修諸家譜 巻八百九十三
- 『改定増補 大武鑑 上巻』(橋本博、昭和39年(1964年)初版、名著刊行会)
- 『宮崎県の地名 日本歴史地名大系46』(平成9年(1997年)、平凡社)