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生涯
高次の庶長子として京都の安久居にて産まれる。母は高次の侍女・於崎。幼名は熊麿と称した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際、父の高次は西軍の要請に応じて忠高を人質として大坂城へ送ったが、実際は東軍に加担しており、西軍の足止めのため大津城に立てこもった(大津城の戦い)。
慶長14年(1609年)、高次が死去したため、若狭小浜9万2,000石(若狭一国)を相続した。
慶長19年(1614年)の大坂の陣では徳川方として参戦し、冬の陣での講和は、義母の常高院を仲介として忠高の陣において行われた。また、講和条件の大坂城の外堀を埋める作業の工事奉行となった。夏の陣では京極軍は首数370を打ち取るも、進軍に遅れた。寛永元年(1624年)には越前国敦賀郡が加増された。
小浜藩主となった忠高は遠敷川を船が往来できるように改修した。また高次の代では未完成であった小浜城の築城を進めたが、幕府からの度重なる普請役や軍役の申し付けにより思うように進まず、天守閣の完成を見ないまま転封となった。
寛永11年(1634年)には、毛利家に対する押さえとして、京極家が室町時代に代々守護を務めていた出雲、隠岐2か国へ加増転封となり、合計26万石を所有し、さらに石見の石見銀山も当てられた。関ヶ原の戦い時にも京極家と毛利家は激闘しており、父高次は毛利元康の猛攻を大津城で防いでいる。この大幅な増封は明らかに毛利家への押さえとしての配置と考えられている。それだけ徳川将軍家の京極家への信頼は厚いものであった。
松江藩では、普請によって培った土木技術をもとに、古くから水害の多かった斐伊川の大改修に着手した。竣工は死去した後の松平家の治世下であったが、築いた堤は若狭守であった忠高にちなみ「若狭土手」と称され伝えられた。また改修に伴い、砂が下流へと流れ込むことから堀尾家時代に禁止されていた鉄穴流しを寛永13年(1636年)ごろ解禁し、鉄鉱業の振興を図った。
寛永14年(1637年)、45歳で死去した。嗣子がなかったため、京極家は改易されかけたが、それまでの徳川家に対する京極家の忠義を考慮されて、甥の高和が播磨龍野に6万石の所領を与えられることで大名として存続を許された。
人物・逸話
- 高次の侍女・於崎が忠高を懐妊した際、高次は正室・初の機嫌を損ねるのを恐れ懐妊を隠そうとし、家臣・磯野信隆を浪人とさせ母子を匿わせた。高次は信隆に再仕官を約束していたが、信隆が京極家に再び仕官したのは忠高の代になり松江藩へ転封されてからだった。後世に作成された磯野家の由来書では、文禄4年(1595年)まで忠高を匿ったとされている。[1]
- 将軍家姻戚として優遇された京極家だったが、正室・初姫との夫婦仲はあまり良くなかったとみられる。寛永7年(1630年)に初姫が死去した際は、忠高は臨終に立ち会うこともなく相撲見物に興じていたと伝えられる。このため舅である大御所・秀忠や義弟の3代将軍・家光の怒りを買い、初姫の葬儀は秀忠により徳川家所縁の小石川伝通院にてとり行われ、忠高をはじめ京極家の関係者は葬儀への臨席を許可されなかった。
- 正室初姫との間に子供をなさなかったが、側室との間に一女をもうけた。高和は甥ということになっているが、実は忠高の実子であるという説もある。桃節山『出雲私史』によると、側室所生の子であったので幕府と正室初姫の実家将軍家を憚り、甥ということにされたと言われる。忠高は死去の3年前に養子の許可を幕府へ届けようとしたが、不調に終わっている。
系譜
主題とする作品
- 山本周五郎「癇癪料二十四万石」(『人情武士道』収録)、1935年発表)
脚注
参考文献
- 松江歴史館編『松江藩主京極忠高の挑戦:松江創世記:平成23年特別展秋の巻』、松江歴史館、2011年。(ISBN 9784990604509)。