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五大ファミリー

五大ファミリー(The Five Families)は、アメリカ合衆国ニューヨーク市に本拠を置く、マフィアコーサ・ノストラ)によって構成される犯罪組織である。1931年のギャング抗争(カステランマレーゼ戦争)において、サルヴァトーレ・マランツァーノがライバルのジョー・マッセリアに勝利し、ニューヨークのマフィアを5つのグループ(五大ファミリー)に整理した。その後ラッキー・ルチアーノがマランツァーノを暗殺し、五大ファミリーを再編した。

両者の再編とも、既存勢力の追認にとどまり、マッセリアが倒された後もマランツァーノが倒された後も、縄張りはその部下たちにそのまま引き継がれ、ファミリー間の縄張り分割や移譲は行われなかった。ルチアーノの再編では、五大ファミリーを代表するボスたちが紛争解決のために話し合うコミッションが定着した。

1931年の再編

マランツァーノによる再編:

ルチアーノによる再編:

  • ボナンノ一家(ジョゼフ・ボナンノ) ※旧マランツァーノ一家の大部分を引き継ぐ
  • プロファチ一家(ジョゼフ・プロファチ)
  • ルチアーノ一家(ラッキー・ルチアーノ) 
  • マンガーノ一家(ヴィンセント・マンガーノ) ※スカリーチェを降ろしマンガーノをボスにした
  • ガリアーノ一家(トミー・ガリアーノ)

形成過程

移民流入 1890年代~1900年代

五大ファミリーの原型は、アメリカの移民政策によりイタリア移民が急激に増えた1890年代までさかのぼる。移民一世の世代のシチリアギャングは出身地別に派閥を形成し、パレルモ派閥(パレルモ近郊を含む)、コルレオーネ派閥(近郊を含む)、カステランマレーゼ派閥(近郊を含む)が目立って大きかった[1]。3派閥以外にシチリア南部アグリジェント派閥もあった。コルレオーネ派閥のモレロ一家がパレルモ派閥を取り込むなど、同郷シチリアの絆で連携もした。モレロ一家は、強請、賭博、紙幣偽造、麻薬密輸など幅広い違法活動を組織立てて展開し、各派閥のうち突出した勢力になった。彼らはアメリカの組織犯罪(シンジケート)の走りとされた[2]

派閥争い 1910年代

1910年、モレロ一家のボス、ジュゼッペ・モレロが監獄送りになった時に権力の空白が生まれ、覇権争いが起きた。モレロと共に捕まり政府密告者になったサルヴァトーレ・クレメンテの証言によれば、当時のニューヨークは、マンフレディ派(ブルックリン)、ニコラ(コラ)・シーロ派(ブルックリン)、ロモンテ派(ハーレム)、ダキーラ派(ハーレム)の4つの派閥があり、前3者は互いに提携しているが、ダキーラ派とは対立しているとした[3]

  • マンフレディ(アル・ミネオ)派(パレルモ閥)
  • コラ・シーロ派(カステランマレーゼ閥)
  • ロモンテ派(コルレオーネ閥)
  • ダキーラ派(パレルモ閥)

定説では、1910年にモレロやルポが投獄された時、ロモンテがモレロ一家を継ぐ一方で、パレルモ派はルポの後継者にダキーラが頭角を現し、モレロに代わって全米リーダー(ボスの中のボス)に選出された(それまでモレロが全米のマフィアリーダーだったとする。ニコラ・ジェンタイルの証言)。

ダキーラのボス選出に反発したアル・ミネオがコルレオーネ派やカステランマレーゼ派と同盟してダキーラに対抗し、ここにパレルモ派が2つに分かれた。「ダキーラ派は何度も襲撃されており、これからも抗争が起きるだろう」と予測したクレメンテの言葉通り、その後流血抗争が起こり、ロモンテ兄弟やジュゼッペ・フォンタナ(パレルモ閥)などが殺された。

1916年、モレロ一家が新たにブルックリンで台頭したカモッラの攻勢をうけ(マフィア-カモッラ戦争)、ハーレム108丁目からハーレム116丁目にテリトリーを移した時、108丁目にいたコルレオーネ系のガエタノ・レイナが独自の派閥を形成し(現ルッケーゼ一家)、ここにコルレオーネ派閥が2つに分かれた。

ブルックリン臨海区・南部には世紀の変わり目以前からパレルモ系派閥が形成され、ダキーラ一家から派生したともアル・ミネオが率いたギャングだったとも言われたが、プロファチ一家(現コロンボ一家)の源流となった。

禁酒法時代

1920年代、シチリア系派閥の大多数は酒の密輸・密売に没頭した。密輸の儲けは、賭博・用心棒代・売春など従来の稼ぎとは次元の違う大きさになり、多くのマフィアが急速に富裕化した。一方で密輸の利権は多くの抗争を生み、多くのマフィアが命を落とした。

1920年、モレロが出所した時パレルモ対コルレオーネの争いが再燃し、密輸の縄張り争いを伴って抗争がエスカレートし、十数人の死者を出した。最終的に和平コミッションが開かれ、両サイドが和解した。この時、アル・ミネオや出所したモレロら権力者たちのバックアップを得たジョー・マッセリアがリトルイタリー周辺の密輸ギャングを元に独自の一家を作り、シチリア系だけでなく非シチリア系ギャングを貪欲に取り込んで一大勢力を形成した(現ジェノヴェーゼ一家)。

密輸ギャングから酒を買って店に売りつけるだけのシカゴでは単純な酒場の奪い合いに終始したが、ニューヨークは海外の調達から国内搬送まで強いチームワークが必要な上流部門のビジネスが活発化し、これが組織の規模を大きくした。1930年代前半にカステランマレーゼ戦争が収束した時の五大ファミリーは、移民街の狭い縄張りで自足するストリートギャングから、ニューヨーク内外に非合法ビジネスを多角化するシンジケートギャングに変貌していた。

非シチリア系ギャングの台頭

カモッラなど非シチリア系(イタリア本土系)ギャングが1890年代からニューヨーク各地にいたが、大きな組織勢力にならなかった。ジョシュ・ガルッチなど既得権を持った大物は例外的で、既得権を持つシチリア系に対し既得権を持たない非シチリア系が挑戦する図式があった。1910年代前半にブルックリンで台頭したカモッラがハーレムに進出し、1916年マフィア-カモッラ戦争が起きたのもこの流れである。戦争の結果、カモッラの主力が投獄され、カモッラ残党は分散した[4]。1920年代にかけて非シチリア系は定収入の確保を求めてマフィアに再接近し、同じ利権を共有して提携したり、縄張りをめぐって血の抗争に発展した。マンガーノ(パレルモ派閥)とカラブリア系のフランキー・イェールの提携、またブルックリン南部のシチリア勢とイェール亡き後のカラブリア勢の血の抗争が典型である。非シチリア系がマフィア組織に入るのは1920年代後半になってからだとするジョゼフ・ヴァラキの言葉通り、1920年代後半に非シチリア系が、シチリアマフィア組織に大量に流入した[5]

五大ファミリーの源流

1.パレルモ派閥
米国に移民を運ぶシチリアの代表的な玄関がパレルモであり、米国の主な入港地がニューヨークだったため、ニューヨークにはパレルモ系のコミュニティが最も早く形成され、1880年代には既にパレルモ出身者のマフィアサークルがあった。1898年までニューヨークとブルックリンが別々の市だったため、一説にそれぞれ独立した派閥を形成したとされる。マンハッタン(ニューヨーク)では、ロウアー・マンハッタンロウアーイーストサイドイーストビレッジ)やイースト・ハーレムを拠点にした。ブルックリンでは臨海区や南部にテリトリーを形成した。主なリーダーにイニャツィオ・ルポ、ジョゼフ・バルサモ、ジュゼッペ・フォンタナ、サルヴァトーレ・ディベッラ、サルヴァトーレ・ダキーラウンベルト・ヴァレンティ、サルヴァトーレ・マソット、アクルーソ・ディミノ、(アル・ミネオ)などがいた。1910年のモレロの投獄後、数々の抗争で主役を演じ、一枚岩ではなく、非シチリア系の取り込みに積極的だった。ヴィンセント・マンガーノフランク・スカリーチェカルロ・ガンビーノらはこの派閥出身である。ダキーラ(パレルモ市出身)の組織はアル・ミネオ(同パレルモ市出身)を経てマンガーノ(同パレルモ市出身)一家となった。一方フォンタナ(パレルモ近郊ヴィッラバーテ出身)の組織はダキーラまたはディベッラを経て1920年代半ばプロファチ(ヴィッラバーテ出身)に受け継がれ、プロファチ一家となった[6]
2.コルレオーネ派閥
ジュゼッペ・モレロ率いるモレロ一家が1900年代初頭から一大勢力を形成し、イースト・ハーレムを拠点にロウアー・マンハッタン、南ブロンクスに勢力を広げ、パレルモ派閥も多数取り込んだ。この一家の血縁者(ジュゼッペ・モレロニコラス・テラノヴァヴィンセント・テラノヴァチロ・テラノヴァ)の他、アントニオ・チェカラ、フォチュネート・ロモンテ、ヴィト・カッショ・フェロガエタノ・レイナ、スティーヴ・ラサール、トミー・ガリアーノなどがいた。コルレオーネ近郊の町レルカラ・フリッディ出身のラッキー・ルチアーノ、メンフィ出身のマッセリアは、この派閥に属するとは見なされていないが、一家の形成過程から便宜上この派閥に入れることもある。モレロ一家は、ロモンテ兄弟、テラノヴァ兄弟、マッセリアを経てルチアーノが継ぎ、ルチアーノ一家となった。レイナは1910年代にモレロ一家より分派してブロンクスに拠点を築き、トミー・ガリアーノが継いでガリアーノ一家となった。ルッケーゼはパレルモ市出身でありながら若い頃モレロ一家と関係が深く、分派したレイナに追随した。
3.カステランマレーゼ派閥
ブルックリンの北部ウィリアムズバーグに最大のコミュニティを形成し、モレロ一家に次ぐ一大勢力を形成した。主なリーダー/幹部にニコラ(コラ)・シーロ、ヴィト・ボンヴェントレ、フランチェスコ・イタリアーノ、フランク・ガロファロ、ベンジャミン・ギャロ、マリアーノ・ギャランテ、フランチェスコ・ピューマ、ステファノ・マガディーノサルヴァトーレ・マランツァーノらがいた。この派閥は1900年代後半より、ボンヴェントレが結成した殺人集団グッドキラーズ中心に同郷のブチェラート一家との抗争に明け暮れ、アメリカ北東部各地で多くの殺人を請け負った[7]。マッセリアが侵攻を企てるまで、パレルモ閥とコルレオーネ閥の長年の抗争に巻き込まれなかった。コラ・シーロが長年ボスを務めたが、ステファノ・マガディーノの傀儡と言われた。本当のボスは、マガディーノでもマッセリアと戦ったマランツァーノでもなく、ヴィト・ボンヴェントレだったと見られる。最終的にジョゼフ・ボナンノが継いでボナンノ一家となった。ジョー・アイエロ(シカゴ)、サルヴァトーレ・サベッラ(フィラデルフィア)、ガスパール・メッシーナ(ボストン)、ガスパー・ミラッツォ(デトロイト)など同郷分子がアメリカ北東部に散らばり、派閥の結束力が最も強かった。

シンジケート統合

カステランマレーゼ戦争

マランツァーノの野望

マッセリアとの争いを制したカステランマレーゼ派ボスのマランツァーノは、ニューヨークマフィアを5つに整理して五大ファミリーとした。五大ファミリーは新たに作られたものではなく、ニューヨーク各地の既存のシチリア系勢力を便宜的に5つに括ったもので、マランツァーノは自らを五大ファミリーの上に立つ「ボスの中のボス」と宣言した。敗者となったマッセリアの縄張りに手を付けず、ルチアーノを旧マッセリア派のボスと認めた。全米からマフィアを集めてマフィアの行動規範を定めた。

マランツァーノはシチリアマフィアの世界支配という野望をもち、イタリア本土系は容認したが、ユダヤ系など他国系ギャングは排除した。開放型シンジケートを目指すルチアーノを危険分子と見なして武力排除に動いたマランツァーノは、マッセリアの死から半年後の1931年9月、ルチアーノの手下に謀殺された[8]

ルチアーノの一家継承

マッセリア一家は、カステランマレーゼ戦争でモレロやアル・ミネオ、更にマッセリア自身が殺されて有力なシチリア人が舞台から消え、代わって密輸で成り上がった非シチリア人(フランク・コステロ、アンソニー・カルファノ、ジョー・アドニス、ヴィト・ジェノヴェーゼら)が主導権を握った。彼らは、シチリア人でありながらどのシチリア組織にも属さないローンウルフだったルチアーノをボスに担ぎ上げることでファミリーの体裁を整え、一家を乗っ取った。1920年代を通じてニュージャージーやブロンクスなど各地のギャングを傘下に取り込んだマッセリアの勢力が母体であり、ボスはシチリア系ながら主力の幹部の大半が非シチリア系という異例の組織構成で、また五大ファミリーの中で最大の規模となった。

ルチアーノは、アメリカ各都市のギャング勢力(ユダヤ系、アイルランド系を含む)と連携して全米ネットワーク作りを進めた[9]。問題が起こった時にボスが集まって話し合う会議(通称コミッション)は、1900年代、またはそれより早くから存在したが、その伝統に従った。一方でユダヤ系ギャングと合同の執行機関マーダー・インクを作り、プロの殺し屋を雇って殺人行為を規律化した[10]

旧世代マフィアと新世代マフィア

マランツァーノとルチアーノの対立は、地縁・血縁に囚われる旧世代マフィアとアメリカ育ちの新世代マフィアの対立とも言われたが、その後存続した五大ファミリーの支配層は、血縁者で周りを固め、同郷の絆を重視するなど故郷シチリアのマフィアの風習をそのままアメリカに持ち込み、また継続した。その風習に反してシチリア系・非シチリア系の区別を排除し外部勢力の非シチリア系とも緊密に結びついたのは、マフィアの家系でなかったマッセリアやルチアーノなど例外的な存在だった。またアメリカの資本主義に即したビジネスの多角化・企業化の推進は、旧世代・新世代を問わず、マフィア一般にあまねく見られたトレンドであり、旧世代と目されるマランツァーノやプロファチは企業化が顕著だった。世代間ギャップという点で、アメリカで育ち英語も話せる移民2世が、英語を話せないイタリア生まれ育ちの移民1世を軽蔑するという傾向はあったが、ビジネスの流儀には影響はなかった。

1930年代前半の五大ファミリー時代は、大半のファミリーの支配層は従来と同様にシチリア勢が中核を占め、ナポリ系・カラブリア系有力者をトップランクに並べたルチアーノ一家は例外的だった[6]

ファミリーの拡張

全米進出

五大ファミリーは、1933年に禁酒法が終わると、酒の密輸で蓄えた富を賭博ビジネスや娯楽産業に注ぎ込んだ。全米各都市のギャングと、縄張りの範囲やフリーゾーンの設定を通じて連携すると共に、フリーゾーンとなったフロリダやラスベガスなどアメリカ各地に積極的に進出した。1930年半ばニューヨークの司法検察官トーマス・デューイが容赦ないマフィア狩りを行い、ニューヨークマフィアの全米進出を加速させる一因となった。地元ニューヨークではガーメント地区(服飾問屋街)、港湾荷役、魚市場、建設業などの組合に侵攻し、各産業への影響力を強めた。また政治家や官僚、警官、判事を賄賂漬けにし、賄賂攻勢はFBI長官やニューヨーク市長にまで及んだ。第二次世界大戦では、収監中のルチアーノと政府の密約により連合軍のイタリア上陸やニューヨーク港のスパイ摘発に協力した。戦時中はフードスタンプ(食糧配給券)の不正取引が横行し、マフィアに思わぬ余得をもたらした。賭博の拡大志向はアメリカにとどまらず、国境を越えてキューバやハイチ、バハマに達し、国際化した。1946年キューバでハバナ会議が開かれ、五大ファミリー中心に全米マフィアが集った。1950年代初め、キーフォーヴァー委員会でイタリア系ユダヤ系組織犯罪が追及されるが、メンバー個人を脱税で検挙するにとどまり組織はダメージを受けなかった[11]

成熟と対立

1950年代後半から1960年代にかけ、ジェノヴェーゼ一家内の権力闘争、コロンボ一家の内紛、ボナンノ引退騒動(バナナ戦争)など、五大ファミリー内外の軋轢や対立が表面化した[6]。水面下の駆け引きが常態化し、傀儡ボスを置くなどファミリー間に支配関係が生じ、ボス・ファミリーは互いに対等という従来の思想は崩れた。ファミリー内部においても、膨張した組織の中で、活動の違いによる様々な派閥を生じ、対立や分裂を引き起こした(「ホワイトカラー犯罪」専門のフランク・コステロと「ブルーカラー犯罪」専門のヴィト・ジェノヴェーゼの対立、国際ビジネスを優先するボス(ボナンノ)と地元の縄張りを優先する幹部(ガスパール・ディグレゴリオ)の対立など)。

数十年の歳月を経てメンバー構成は、移民中心からアメリカ生まれ世代に変わり、出自が重要視されなくなったが、移民時代以来のマフィア社会のヒエラルキー(階層)を反映した出自の問題は根強く残った。コロンボ一家の内紛のように、既得権を持ったシチリア系ボス(プロファチ)に対して既得権を持たないナポリ系部下(ジョーイ・ギャロ)が反乱を起こすなどシチリア系・非シチリア系の対立は時に先鋭化した[6]

1957年11月、ニューヨークのトップ二大ファミリー(ジェノヴェーゼ、ガンビーノ)のボス交代を発表するために開かれたアパラチン会議が地元警察の手入れにあい、集結した全米各都市のマフィアメンバーが60人以上拘束された。ジェノヴェーゼやガンビーノら五大ファミリーのボス・幹部も大勢捕まった。全米にまたがる巨大なマフィアネットワークの存在が明るみに出た[12]

1960年代、ガンビーノが勢力を伸張し、コミッションを通じて五大ファミリーを主導した。収入源は、用心棒代、高利貸し、恐喝、賭博から、組合・企業強請、カジノ建設、金融詐欺等まで多岐にわたり、合法投資を行って不正資金を洗浄した(マネーロンダリング)。特に組合を通じた産業界への影響力は史上空前となった。1963年、ジェノヴェーゼ一家のジョゼフ・ヴァラキが沈黙の掟を破って組織の内幕を暴露し、ニューヨークの各ファミリーの具体的な人員構成が公に知られることとなった[9]。1969年のジョゼフ・ボナンノの引退をもって、ルチアーノ再編時のボス5人はすべて入れ替わった[6]

入会制限とフロントボス

1950年代、一部のマフィア上層部がマフィアのメンバーシップの切り売りを行なったため、大量の人間が組織に流入し、組織が膨張した。FBIがマフィアに電話盗聴を仕掛け始め機密漏えいが危ぶまれた1960年代はその反動でマフィア入会が厳しく制限され、メンバーシップが裏社会のステイタスと化した。秘密が外に漏れるのを防ぐためメンバー間の伝達手段が巧妙化した。

ヴァラキの暴露以降、当局の追及をはぐらかすため実権のない見せかけのボス(フロントボス)を置き、実際のボスは他の者が務めるという手法が取り入れられ、1970年代には一般化した。この手法は1960年代半ばにトーマス・エボリをフロントボスに据えたジェノヴェーゼ一家がニューヨークでは最初とも言われたが、もっと古くルッケーゼ一家が最初とする説もある[13]

現代の五大ファミリー

RICO法(組織犯罪対策法)に基づくFBIの主導による組織犯罪対策が開始され、その成果が出始めた1980年代から1990年代に組織の体制はほぼ壊滅状態にあり、隆盛を誇った1970年代半ばまでの面影はもはや存在しない。

現在の五大ファミリーの名前の由来は、ジョゼフ・ヴァラキが1963年に初めて沈黙の掟を破って証言したときのそれぞれのボスの名前であり、以来その名称を使用している。現在の五大ファミリーと過去の主なボスは以下の通り。

各ファミリーの勢力は時代と共に変動しているが、ある資料では正式組員の数についてジェノヴェーゼ一家とガンビーノ一家が約300人、他の三つのファミリーは約100人前後としている。

脚注

  1. ^ New York Mafia - Alternative Theory (May 2014)
  2. ^ Mafia Boss of Bosses Giuseppe Morello - Early Career
  3. ^ The Struggle for Control - The Gangs of New York
  4. ^ The Struggle for Control - Sicilians & Neapolitans
  5. ^ David Critchley(2008), The Origin of Organized Crime in America: The New York City Mafia, 1891–1931
  6. ^ a b c d e THE AMERICAN MAFIA - Crime Bosses of New York
  7. ^ Vito Bonventre Biography
  8. ^ Salvatore Maranzano La Cosa Nostra Database
  9. ^ a b Italian Organized Crime, History of La Cosa Nostra Federal Bureau of Investigation (FBI)
  10. ^ Murder, Inc. - The Syndicate's Killing Team
  11. ^ Kefauver Crime Committee Launched
  12. ^ Attendee Profiles At The 1957 Apalachin Mob Confab Mike La Sorte, 2008
  13. ^ ガリアーノ一家(現ルッケーゼ一家)のボス、トミー・ガリアーノが1932年大型汚職で摘発された時、副ボスのルッケーゼに実権を譲って第一線から身を引き、自らはフロントボスを演じていたとする説。

参考文献

  • Critchley, David (2008). The Origin of Organized Crime: The New York City Mafia, 1891-1931. London: Routledge. ISBN (9780415882576) 
  • Dash, Mike (2009). The First Family: Terror, Extortion and the Birth of the American Mafia. London: Simon & Schuster. ISBN (9781400067220) 

外部リンク

  • THE AMERICAN MAFIA - Crime Bosses of New York
  • New York Mafia - Alternative Theory (May 2014)
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