生涯
元は長沢勘五郎という名で越中国湯山城代・長沢光国の小姓だったが、永禄12年(1569年)に光国が上杉謙信に降った際に、謙信に召し出され長沢道如斎義風と名乗った。
のちに越後三条の町奉行を任され、謙信死後の御館の乱では上杉景勝に従い、義兄・五十公野治長(後の新発田重家)と共に加地秀綱の加地城や神余親綱の三条城を攻略する。天正8年(1580年)、新発田長敦が急死し、治長が新発田重家と称し新発田氏を継ぐと、代わりに(五十公野氏)を継いで五十公野道如斎信宗と名乗った。
天正9年(1581年)、義兄・重家が恩賞への不満から上杉景勝に反旗を翻すと重家に従う。天正15年(1587年)、藤田信吉率いる景勝勢に五十公野城を囲まれ、籠城中に家老の河瀬次太夫や近習の渋谷氏などが信吉に調略されて寝返るなどしたため、10月13日に落城、信宗も討ち死にを遂げた。