不破氏(ふわし)は、日本の氏族。
美濃国不破氏
百済系帰化人(多利須々)の後胤[1]で、美濃国当芸郡(野上郷)(仲山麓)[注釈 1]に生まれた(宮勝木実)(みやの すぐりの このみ)が、壬申の乱の功によって、当芸郡より分割した不破郡を賜り、不破と改姓したとされる[3]。木実は不破郡大領となり、大宝2年(702年)の持統天皇美濃行幸の際、地方豪族最高位である外従五位下を授かっている[4]。また、同じく壬申の乱に功のあった百済人淳武微子(淳武止)の後裔に、神亀元年(724年)に不破郡に生まれた不破勝(出家して善射)がいる[5]。
さらに、清和源氏土岐氏も存在する。土岐頼遠の子のひとりの頼道が、不破氏と称した。
南宮大社社家の不破氏
不破郡大領宮勝氏の系譜を引く不破氏は、南宮大社の社家の一つとなった[6]。後裔に寛永3年(1626年)に生まれ吉川惟足の高弟となり、(不破神道)を唱えた不破惟益がいる[7]。
府中の不破氏
山城国(西之岡)の住人(松井蔵人直家)は、六波羅探題に仕え、元弘元年(1331年)の笠置山落城の際に後醍醐天皇を探し出して、鎌倉幕府から恩賞として美濃国に数か所の荘園を得ると、不破郡府中村に移住して不破氏と改姓し、子の(直重)以下も代々府中村に住んだと伝わる[8]。直家との系譜は明確でないが、『美濃国諸家譜』によると、(府中城)主(不破河内守直道)は長禄元年(1457年)に土岐氏の家督争いで(揖斐左近太夫基春)らに与して斎藤利永らと戦って武功があった。その子(不破小太郎)は、応仁の乱に土岐成頼に属して山名宗全方に加わった。その子(不破孫左衛門道広)は(西之保城)(西保村 (岐阜県)、現・岐阜県安八郡神戸町(西保))に移り、道広の孫が不破光治であるという[9]。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 史料
- 『不破家譜』
- 『続日本紀』
- 『美濃国諸家譜』