概要
電車線の専用軌道区間で初めての駅である。荒川橋を過ぎ、貢川を渡って南に進路を変えながら斜めに専用軌道区間に入り、緩やかにカーブした先にあった。相対式2面2線の構造で、次の貢川駅と連続で交換可能駅であったが、廃止直前に多くの可能駅の交換機能が停止された中で最後まで生き残り、朝夕のラッシュ時に用いられた。
当初は仮駅として開業した。北側に接続する併用軌道部分を速やかに開通させる予定でいたためであったが、思いがけず手間取ったために、まるまる2年間「仮駅」扱いのままで営業せざるを得なくなった。位置を少し移転して正式駅となったのは荒川橋電停まで北進した1932年9月15日のことである。
なお甲府空襲の直前、当駅に車両を全て避難させる処置がとられた。これによって結果的に全ての車両が焼失せずに済み、電車線は空襲後すぐに当駅を暫定的に甲府側の起点駅として運輸を開始することが可能となり、戦争直後しばらくの急激な乗客増につながった。一方、1959年8月14日に県内を通過し大きな被害をもたらした台風7号の影響を直に受け、当駅から玉幡駅まで架線柱が線路上に倒れるという被害にも見舞われている。
歴史
隣の駅
廃線後の状況
専用軌道部は突入部から終点の甲斐青柳駅まで「廃軌道」と呼ばれる2車線の道路として使用され、各駅の跡もその上に存在する。
当駅は南西通りが分岐する東のガソリンスタンド横に道路のふくらみとして跡が残されており、比較的判別が容易である。ここから先、釜無川を越える手前の農林高校前駅まで同様の状態が続く。
参考文献
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- 花上嘉成『山梨交通鉄道線回想録』(「RM LIBRARY」5号、ネコ・パブリッシング刊、1999年)
- 中丸眞治・楠裕次『甲府街史』(山梨日日新聞社刊、1995年)
- 櫛形町誌編纂委員会編『櫛形町誌』(櫛形町刊、1966年)
- 鉄道省編『山梨電気鉄道』(鉄道省文書)
関連項目
座標: 北緯35度39分26.7秒 東経138度33分12.9秒 / 北緯35.657417度 東経138.553583度