上田 直次(うえだ なおつぐ、生年不詳~1676年9月14日)は、江戸時代初期の武士(備後福山藩士)。通称は玄蕃。福山藩主水野家筆頭家老を務めた。
生涯
水野勝俊、勝貞、勝種三代にわたり家老を務めた(上田玄蕃直重)の長男として福山藩に生まれた。弟は(上田勘解由直定)で、同じく福山藩家老を務めた。家禄は祖父の(上田四郎右衛門)の時代で900石であった[1]。
直次は土木工事に精通していたことを見込まれ、家老と併任して干拓奉行に就任し、福山城下沖の干拓を請け負った。1671年(寛文11年)、川口村の干拓を完成させた。
その後も家老を務め、1676年9月14日に没した。戒名は観静院殿智道勇日進大居士。子孫は1698年(元禄11年)に水野家が改易になると浪人となった。墓所は日蓮宗 法鏡山実相寺にある[2]。
川口村など、干拓によって造成された地域では、直次は「干拓の父」として敬われ、玄蕃社に祀られた。現在も福山市(東川口町)に「上田玄蕃直次之碑」があり、当時の功績が伝えられている[3]。
親族
- 祖父 - 上田四郎右衛門
- 父 - 上田玄蕃直重
- 弟 - 上田勘解由直定