上杉 勝承(うえすぎ かつよし)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。出羽国(米沢新田藩)の第2代藩主。米沢藩では俳諧でも有名で、素嶺の歌号を持つ。
経歴
享保20年(1735年)、上杉勝周の長男として誕生した。延享4年(1747年)、父の死去により家督を継いだ。駿府加番を務め、藩政では財政窮乏のために厳しい倹約令を出すと共に、産業の振興に努めた。宝暦6年(1756年)に米沢に初入国する。
本家の藩主・上杉重定は奢侈に耽り政治に無関心で、近臣の森利真が権勢を振るって藩政が混乱していた。宝暦12年(1762年)・同13年(1761年)に米沢藩の混乱を幕府に訴える箱訴まで行われ、幕閣の話題に上るに至ったため、勝承は宝暦13年12月に尾張藩家老に、重定の義兄弟である藩主・徳川宗睦に翌年の参府中、重定の引退勧告を働きかけるように依頼している。明和4年(1767年)に重定が隠居し、養嗣子治憲(鷹山)が家督相続すると、治憲や米沢藩江戸家老・色部照長と共に、白子神社に大倹実行の誓詞を奉納する。
系譜
父母
正室、継室
養子