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上元夫人

上元夫人(じょうげんふじん)は、中国道教における女仙である。彼女は天界で最も高貴の女仙であり、長生を執掌している[1]。道教で言う三天官(上元・中元・下元)のうちの上元の官に当たる女仙である[2]。小字は阿環(あかん)。

上元夫人
各種表記
拼音 Shàngyuán Fūrén
日本語読み: じょうげんふじん
英文 Lady Shangyuan
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概要

道教の文献『墉城集仙録』によれば、上元夫人は道君の弟子で、古くから得道登仙して、真籍(真人または仙人たちの名籍)を管理し、亀台金母(西王母)に次ぐ地位を持つ[3]。しばしば九天玄女と混同される。

『漢武内伝』によれば、前漢武帝は長生を望み、七月七日に宮殿で西王母を迎え、西王母は侍女の郭密香に命じて、もう一人の女仙・上元夫人をこの場に招いた。郭密香は、殿に下りてきて、姿を消した。やがて郭密香は、上元夫人の侍女をつれてきた。上元夫人の侍女は「いま上元夫人は太帝君の指示を受けて、玄洲で天元の校正をしているから、少々お待ちください。」と言ったという。上元夫人と西王母は絳河(天の川)を隔てて、四千年余り顔を合わせていない。しかし武帝は、上元夫人が誰であるか知らない。西王母は「彼女は三天真皇の母、三天上元の官にして、十方の玉女の名録を統領する者なり」と言ったという。やがて雲の中からの声を聞く。上元夫人は十八九歳くらいの千人余りの女官を連れて到着した。上元夫人は殿に上りて西王母に向って礼拝したが、西王母に止められ、そして呼んで同坐して北向す(西王母は東向す、武帝は南向す)。上元夫人も厨を設く、厨は精珍にして西王母の設けたものと似ている。西王母は武帝に、「上元夫人は真元の母、尊貴の神女であり、当に起ちて拝すべきだ」と言った。武帝は上元夫人に礼をした後、還りて坐す。上元夫人は武帝をひどく軽蔑して、気性が荒く、名利を追い、好色を貪り、長生にはなりにくいと叱った。武帝が長生を欲するなら、秘術の経典『五帝六甲霊飛十二事』を手に入れねばならない。しかし、『五帝六甲霊飛十二事』は神仙以外の者に勝手に伝授することはできない。西王母の再三にわたる説得に、ついに折れて、武帝に『五帝六甲霊飛十二事』を授与している。[4]

『歴世真仙体道通鑑後集』巻三にも、上記と類似の物語が記載されている[5]

容姿

上元夫人は天姿清耀、霊眸艶絶、雲彩色を乱した錦と繡ではない赤霜の袍を服す。頭は三角髻を作り、余分な髪を腰まで垂れ、九霊夜光の冠を戴き、六山火玉の珮を垂れ、鳳文琳華の綬を佩用し、腰には流黄揮精の剣を帯びた二十歳余りの艶やかな女仙である。[3]

また『真誥』によれば、上元夫人は赤霜袍を着て、青毛錦の裘をかぶっている。元晨夜月の冠を戴き、六山火玉の珮を帯び、腰には鳳文琳華大綬を佩用し、手には流黄揮精の剱を執る。[6]

唐詩

上元夫人
原文 書き下し文 通釈
上元誰夫人?偏得王母嬌。
嵯峨三角髻,余髮散垂腰。
裘披青毛錦,身著赤霜袍。
手提嬴女兒,閑與鳳吹簫。
眉語兩自笑,忽然隨風飄。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 波多野乾一『支那劇大觀』大東出版社、1940年、第108頁。
  2. ^ 論説資料保存会/編『中国関係論説資料 第1分冊 哲学・宗教・文化』1964年、第535頁。
  3. ^ a b “『墉城集仙録』巻二”. ウィキソース. 2021年11月4日閲覧。
  4. ^ “『漢武内伝』”. ウィキソース. 2021年11月20日閲覧。
  5. ^ “『歴世真仙体道通鑑後集』巻三”. ウィキソース. 2021年11月4日閲覧。
  6. ^ “『太平御覧』巻六百七十五”. ウィキソース. 2021年11月4日閲覧。
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