三善 為長(みよし の ためなが)は、平安時代中期から後期にかけての貴族。(算博士)・(三善雅頼)の子。官位は従四位下・主税権助。
経歴
後朱雀朝の長暦3年(1039年)に算博士に任官すると、以降40年以上に亘ってこれを務める。後冷泉朝に入ると主税権助にも任ぜられたほか、(美濃介)・(越後介)・(越前介)・(土佐介)・(備前権介)と地方官も兼ねた。また、後冷泉朝末の治暦3年(1067年)大外記に任ぜられ、後三条朝の延久元年(1069年)には、長年の労により紀伝道以外の学者ながら対策の問答博士も務めた。
延久3年(1071年)大外記を辞すが、延久4年(1072年)までに正五位下に叙せられる。白河朝の承暦3年(1079年)従四位下に至り、この頃(播磨介)も兼ねた。永保元年(1081年)8月3日(卒去)。
官歴
- 長暦3年(1039年) 日付不詳:算博士
- 寛徳2年(1045年) 4月:兼(美濃介)[1]
- 永承4年(1049年) 日付不詳:去美濃介(秩満)[1]
- 天喜2年(1054年) 2月:兼(越後介)[1]
- 時期不詳:従五位上。主税権助
- 天喜4年(1056年) 10月28日:見主税権助算博士兼(越前介)[2]
- 康平3年(1060年) 日付不詳:兼(土佐介)[3]
- 治暦2年(1066年) 日付不詳:兼(備前権介)[3]
- 治暦3年(1067年) 日付不詳:大外記、余官如元[4]
- 延久元年(1069年) 2月17日:大外記主税権助算博士兼備前権介[5]
- 延久3年(1071年) 日付不詳:止大外記?[4]
- 時期不詳:正五位下
- 延久4年(1072年) 正月23日:見主税権助算博士兼(淡路守)[6]
- 承暦2年(1078年) 12月30日:見主税権助算博士兼(播磨介)[7]
- 承暦3年(1079年) 日付不詳:従四位下
- 承暦4年(1080年) 12月27日:見主税権助算博士兼播磨介[8]
- 永保元年(1081年) 8月3日:(卒去)
系譜
- 父:三善雅頼
- 母:不詳
- 妻:不詳
- 男子:三善雅仲
- 養子
- 男子:三善為康(1049-1139) - 越中国の豪族射水氏の出身