ヴラジーミル・アレクセーヴィチ・コルニーロフ(Vladimir Alekseevich Korniloff、1806年 - 1854年10月17日)は、ロシア帝国海軍の軍人。最終階級は中将。
ヴラジーミル・アレクセーヴィチ・コルニーロフ Владимир Алексеевич Корнилов | |
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生誕 | 1806年2月13日 ロシア帝国(トヴェリ県) |
死没 | 1854年10月17日(48歳没) ロシア帝国 セヴァストポリ |
所属組織 | ロシア帝国海軍 |
軍歴 | 1821 - 1854 |
最終階級 | 海軍中将 |
墓所 | (聖ウラジーミル大聖堂)[1] |
クリミア戦争では黒海艦隊司令長官、セヴァストポリ要塞司令官を歴任し、セヴァストポリの包囲戦で戦死した。
略歴
(トヴェリ県)(スタリツキー郡)出身。父(アレクセイ・ミハイロヴィチ・コルニーロフ)は海軍軍人であり、枢密顧問官、(イルクーツク県)知事、トボリスク県知事を務めた。兄の(アレクサンドル・アレクセーヴィチ・コルニーロフ)もまた海軍軍人であり、枢密顧問官、上院議員を務めた。
1821年、(海軍教練隊)に入り、1823年卒業。バルチック艦隊スループ『(ミルーヌィ)』乗組となる。ギリシャ独立戦争時、戦列艦『(アゾフ)』乗組としてナヴァリノの海戦に参加。1841年、黒海艦隊戦艦『十二使徒』初代艦長。
1847年、新型(蒸気フリゲート)購入のためロンドンに赴く。
1849年、黒海艦隊参謀長に就任。司令長官(ミハイル・ラザレフ)の補佐に努める。
1851年、ラザレフの急死を受け、後任の黒海艦隊司令長官兼侍従武官となる。
1853年11月5日、艦隊旗艦『(ウラジーミル)』(艦長グリゴリー・ブタコフ)に同乗していたところオスマン・エジプト海軍の『パルヴェーズィ・バフリ』と会敵。パルヴェーズィ・バフリの艦載砲数はウラジーミルより多かったものの、艦首と艦尾には搭載しておらず、したがって側面からの砲撃しかできなかった。そこで、ブタコフ艦長は後方の死角を突く作戦に出るが、時間の経過甚だしく、コルニーロフは早急な轟沈を命ずる。そこで今度は至近距離から砲撃を加え、3時間の戦闘の末これを鹵獲。パルヴェーズィ・バフリはセヴァストポリに曳港、接収され、『コルニーロフ』と名付けられた[2]。
1854年、(セヴァストポリの包囲戦)でセヴァストポリ要塞司令官[3]として港口に自国艦艇を自沈させて閉塞し、艦載砲を揚陸して連合軍に対抗したが、要塞防衛を指揮中、重傷を負い死亡した。
脚注
- ^ Vladimir Alekseyevich Kornilov - Find a Grave(英語)
- ^ Mitch. “”. Warshipsfromrussia.devhub.com. 2011年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年8月19日閲覧。
- ^ “Под солнцем благостной Тавриды” (2007年4月16日). 2011年1月6日閲覧。
関連項目
- パーヴェル・ナヒーモフ
- アドミラール・コルニーロフ(Адмирал Корнилов)、名を冠した艦船。