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ラウレアーノ・ビサン・エタメ・マイヤー(Laureano Bisan Etame Mayer, 1977年1月19日 - )はカメルーンの元サッカー選手。ポジションはディフェンダー。
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名前 | ||||||
本名 | ラウレアーノ・ビサン・エタメ・マイヤー Laureano Bisan Etame Mayer | |||||
ラテン文字 | LAUREN | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | カメルーン | |||||
生年月日 | 1977年1月19日(46歳) | |||||
出身地 | ロンディ・クレイビ | |||||
身長 | 180cm | |||||
体重 | 83kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF | |||||
利き足 | 右足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1995-1996 | ウトレラ | 30 | (5) | |||
1996-1997 | セビージャ・アトレティコ | 17 | (3) | |||
1997-1998 | レバンテ | 34 | (6) | |||
1998-2000 | マヨルカ | 63 | (4) | |||
2000-2007 | アーセナル | 159 | (7) | |||
2007-2009 | ポーツマス | 25 | (0) | |||
2010 | コルドバ | 5 | (0) | |||
代表歴 | ||||||
2000 | カメルーン U-23 | 6 | (3) | |||
1998–2004 | カメルーン | 25 | (1) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 (■テンプレート)((■ノート) ■解説)■サッカー選手pj |
経歴
スペインでプロデビューし、1998年にRCDマヨルカに加入。元スペイン代表のビセンテ・エンゴンガと鉄壁のダブルボランチを構成した。98-99年のカップウィナーズカップ(現在のUEFAカップ)では、決勝でSSラツィオに敗れたものの、準決勝でアーセナルFCを破るなど、マヨルカ旋風の立役者となった。(ちなみに、マヨルカ在籍時代は、『ラウレン』と表記されることが多かった)
2000年夏にアーセナルFCへと移籍。03-04シーズンのリーグ戦無敗優勝等、チームの主力として活躍した。
2007年1月、冬の移籍マーケットでアーセナルFC時代のチームメイト、ソル・キャンベル、ヌワンコ・カヌらがプレーしているポーツマスFCへ移籍した。
カメルーン代表では2002 FIFAワールドカップに出場した。しかし大会後に代表招集を拒否、2004年に再び招集を受け入れるもその後正式に代表引退を表明した。2001年のコンフェデレーションズカップでは、何の予告もなく訪日が遅れ、一部では「ローレン失踪か ?」と報じられた。
2010年3月にスペインのコルドバCFと契約を結んだが、シーズン終了後現役を引退した。
人物
父親は赤道ギニアの政治家だった。メイドが働き、大きな家に住んでいた裕福な家庭だったが、1977年に独裁者のマシアス・ンゲマにより、突然父親が政治犯として投獄され、処刑を待つ身になっていた。赤道ギニア軍に所属していた兄の働きで父親は釈放された。父親は既にローレンを妊娠中だった母親と共に国境を越えカメルーンに入国。ローレンはカメルーンで生まれた。かつてスペインの植民地だった赤道ギニアと違い、カメルーンではフランス語で話す必要があったため、家族は数年でスペインのマドリードへ引越し、セビリアへ移り住んだ[1]。
出典
外部リンク
- at the Wayback Machine (archived 2007-05-04)
- at the Wayback Machine (archived 2008-04-30)
- ローレン・エタメ・マイヤー - Soccerbase
- at the Wayback Machine (archived 2009-04-06)
- Profile (Arsenal) at sporting-heroes.net
- Profile (Cameroon) at sporting-heroes.net
- at the Wayback Machine (archived 2007-05-16)