ルノー・ド・ルシー(Renaud de Roucy,約920年 - 963年5月10日)またはラジェノルド・ド・ルシー(Ragenold de Roucy) [1]、10世紀のランス及びルシー伯。923年~925年の間にロワール渓谷を略取し、オワーズを越えてブルゴーニュに侵入した、ラジェノルドという名のノルマン人ヴァイキングの指導者、もしくはその関係者であったとされる。
生涯
ルノーは943年頃、西フランク王ルイ4世と一緒にフランス史に現れ、ヴェルマンドワ伯エルベール2世(943年没)[2]との戦争にて、王を支援した。戦いの後もルノーは王に仕え続け、 945年にサンス伯に封じられた。
945年頃、ルイ4世はルノーに戦いの報酬として、自分の継娘にあたるアルベラード・ド・ロタリンジー[3]と結婚させた。さらにランスとラオンの間にあるルシー(フランス語版)の領地を与えて要塞を築く義務を負わせ、947年~953年にかけてこれを実現させた。
この間、ルノーは約875年に設立されたシャルリューのベネディクト会修道院の設立に賛成する寄付憲章に署名している
946年、ランス大司教であったユーグ・ド・ヴェルマンドワ(フランス語版)は国王ルイ4世によって退位させられ、後任にアルトー(フランス語版)が任命された。ルノーはランス伯となり、教区の権能は新たなランス大司教アルトーに委ねた。
963年5月10日、まだ少なくとも4人の幼い遺児を残してルノーは死去した。
- ジスルベール(951年 - 約1000年)(フランス語版) 、ルシー伯及びランス副伯
- ブリュノン(フランス語版)(約956年 - 1016年 )、ラングル監督(フランス語)
- エルマントルド(958年 - 約1004年 ) - 初婚でマコン伯オーブリー2世(982年没)と結婚し、死別後にブルゴーニュ伯オット=ギヨーム(1026年没)と再婚
- 名前不明の娘 - サンス伯フロモン2世(1012年没)と結婚。[4]
ルシー伯ルノーは、ランスのサン=レミ聖堂(フランス語版)に埋葬された。
脚注と参照
- ^ フランス、シャンパーニュ=アルデンヌ地域圏マルヌ県ランス( Rheims,現在のランス)大司教区のサン=レミー(Saint-Remy,現Saint-Remi,サン=レミ)修道院教会(現在は小バシリカ)に埋葬された年が963年となっているので、ルノーが967年に死亡したことは有り得ないとされる。ここに埋葬された重要人物の埋葬リストの閲覧が可能である。 注:ランスのサン=レミ大聖堂(フランス語版):「Rheims」は「Reims」の古い綴りである。ルノーが埋葬された当時、この教会はランスの大修道院に属していた。また、看板には「Saint-Remi」ではなく「Saint-Remy」という古い綴りが使われている。
- ^ Jean-Noël Mathieu (2000). “« Prosopographica et Genealogica / 3 »”. « La Succession au comté de Roucy aux environs de l'an mil », dans Onomastique et Parenté dans l'Occident médiéval. Oxford, Linacre College,Unit for Prosopographical Research, coll. p. 310. ISBN (1-900934-01-9)
- ^ アルベラードは、ルイ4世の妃ジェルベルジュ・ド・サックスと死別した前夫ロタリンギア大公ギゼルベルトとの実の娘である。
- ^ 『フランドル人の系譜(Genealogia Comitum Flandriæ )』では、次女の名を出さずに存在を記録に残している。エドゥアール・ド・サン=ファールとジャン=ノエル・マテューは、マテュー=マクシミリアン・カンティンの指揮の下、1854年~1860年にかけて発行された1058年の憲章(しかしおそらく年代が悪い)を基にジゼルベルト( Giselberte)という名前を提案した。
参考文献
- Charles Cawley. “section B, « Comtes de Roucy (Origins) » - Ragenold (-after 926)” (英語). Medlands - Foundation for Medieval Genealogy. dans « Northern France - Laon, Coucy, Roucy, Soissons », ch. 3 : « Comtes de Roucy ». 2019年2月22日閲覧。.
- Charles Clémencet; avec la collaboration de Maur Dantine et d'Ursin Durand; continué par Nicolas Viton de Saint-Allais et al. (1818) (フランス語). L'art de vérifier les dates des faits historiques des chartes des chroniques et autres anciens monuments, depuis la naissance de Notre seigneur (impr. C.-F. Patris ed.). Paris. p. 280-282. 1818vol12clemencet.