ミハイル・フョードロヴィチ・ラリオーノフ(ロシア語: Михаил Фёдорович Ларионов、1881年6月3日 - 1964年5月10日)は、ロシア・アヴァンギャルドの画家。「ラリオーノフ」は、「ラリオノフ」[1]とも表記される。
略歴
ヘルソン県のティラスポリ出身。1898年に(モスクワ美術・彫刻・建築学校)にてイサーク・レヴィタンとヴァレンティン・セローフに師事。過激な意見のために三度にわたって停学の憂き目を見るが、1900年にナタリア・ゴンチャロワと出逢い、生涯にわたる関係を築く。
1902年から、印象派の画風を採る。1906年、パリ訪問の後、後期印象派に転向、その後は部分的にロシアの看板書きに影響されつつ(ネオプリミティヴィスム)の画風に転じる。1908年、モスクワの「金羊毛展」に出品。そこにはフィンセント・ファン・ゴッホ、ポール・ゴーギャン、ジョルジュ・ブラック、アンリ・マティス、アンドレ・ドランらの作品も出展された。
ラリオーノフは2つの芸術集団を結成している。一つは「ダイヤのジャック」(1909年 - 1911年)であり、もう一つは、より急進的な「ロバの尻尾」(1912年 - 1913年)である。それぞれの名付け親もラリオーノフであった。ラリオーノフは別の画家集団も擁護しており、そのなかにウラジーミル・タトリン、マルク・シャガール、カジミール・マレーヴィチがいる。1911年、モスクワで1日限りの個展を開く。1913年、レイヨニスムを創出。これはロシア初の(抽象美術)運動であった。
1915年、ロシアを離れ、セルゲイ・ディアギレフのもとでロシア・バレエ団のパリ公演のために舞台美術を担当した。ロシア革命後は後半生をフランスで過ごし、市民権も取得。1955年にはナタリアと籍を入れたが1962年に死別。その後再婚し、1964年にフォントネー=オー=ローズで死去。イヴリー=シュル=セーヌのイヴリー墓地に埋葬された。
2001年、沿ドニエストル共和国中央銀行が記念硬貨の銀貨を鋳造した際、ラリオーノフの肖像が利用された。