マリア・エマヌエル・プリンツ・フォン・ザクセン(ドイツ語: Maria Emanuel Prinz von Sachsen, 1926年1月31日 - 2012年7月23日)は、ザクセン王家家長。儀礼称号としてはマイセン辺境伯(ドイツ語: Markgraf von Meißen)およびザクセン公(ドイツ語: Herzog zu Sachsen)を称していた。
マリア・エマヌエル・フォン・ザクセン Maria Emanuel von Sachsen | |
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ザクセン王家家長 | |
在位 | 1968年 - 2012年 |
称号 | マイセン辺境伯 ザクセン公 |
出生 | 1926年1月31日 ドイツ国、バイエルン州レーゲンスブルク、プリュフェニング修道院 |
死去 | 2012年7月23日(86歳没) スイス、ヴォー州ラ・トゥール=ド=ペ |
埋葬 | 2012年7月30日 オーストリア、チロル州イムスト郡カルレステン、王室礼拝堂 |
配偶者 | アナスタジア・フォン・アンハルト |
家名 | ヴェッティン家(アルベルティン家) |
父親 | フリードリヒ・クリスティアン・フォン・ザクセン |
母親 | エリーザベト・ヘレーネ・フォン・トゥルン・ウント・タクシス |
宗教 | キリスト教カトリック教会 |
生涯
先代家長であったザクセン王子フリードリヒ・クリスティアンとその妻のトゥルン・ウント・タクシス侯女エリーザベト・ヘレーネ(アルベルトの長女)の間の長男(第1子)として生まれた。1963年にアンハルト公子オイゲン(アンハルト公エドゥアルトの三男)の娘(アナスタジア)と結婚したが子供を授からず、また後継者となる弟の(アルベルト)にも子供がなかったため、ザクセン王家家長位の相続問題が持ち上がった。
ザクセン王家の継承法は純サリカ式ではなく準サリカ式を採用しているため、女系を通じての相続も可能であった。マリア・エマヌエルは一番下の妹(マティルデ)の一人息子で、同じヴェッティン家のエルンスト系に属するザクセン=コーブルク=コハーリ家の(ヨハンネス)を次々代の後継者に指名しようと考えていたが、1987年にヨハンネスが登山中の事故で夭折したためにこの構想は頓挫した。
1997年、マリア・エマヌエルはもう一人の妹(アンナ)の長男で、父方ではレバノンの地方領主の血を引く(アレクサンダー)を次々代の後継者に指名し、アレクサンダーとその家族にザクセン王家の女系分家(ザクセン=ゲッサフェ家)を創設させた。しかしマリア・エマヌエルの弟アルベルトは叔父エルンスト・ハインリヒ王子の次男(ティーモ)が平民との貴賤結婚で儲けた長男(リューディガー)を後継者として支持し、女系の甥アレクサンダーの継承には反対した。
2012年7月23日、86歳で死去[1]。
出典
- ^ “Maria Emanuel Markgraf von Meissen im Alter von 86 Jahren verstorben” (ドイツ語). DRESDEN FERNSEHEN. 2012年7月25日閲覧。
外部リンク
- House Laws of the kingdom of Saxony - Heraldica (ドイツ語)
- Albert Prinz von Sachsen (ドイツ語)
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