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マヌエル・コムネノス・ドゥーカス(Μανουήλ Κομνηνός Δούκας, Manouel Komnenos Doukas, 1187年頃 - 1241年)は、エピロス・テッサロニキ専制公(在位:1230年 - 1237年)。中世ギリシア語表記ではマヌイル・コムニノス・ドゥカス。テッサロニキ帝国「皇帝」テオドロス1世コムネノス・ドゥーカスの弟。父系ではアンゲロス(Άγγελος, Angelos)であるが実際にはその名前を使用していない。
生涯
1230年に兄テオドロスがクロコトニツァの戦いで捕虜になった後、統治職を代行する。しかしテオドロスは1237年にブルガリア帝国皇帝イヴァン・アセン2世によって釈放され帰国すると、マヌエルを市から追放し長子ヨハネスをその支配に据えてしまう。マヌエルはやむなくテッサリアに逃れてそこに支配権を確立する。これによってかつての「テッサロニキ帝国」はテッサロニキ(ヨハネス)、テッサリア(マヌエル)、エピロス(ミカエル2世)の三国に分割された事になる。マヌエルは1241年頃に死去し、その遺領はミカエル2世が併合した。
マヌエルの最初の妻はセルビア君主ステファン・ネマニャの姉妹。二番目の妻はイヴァン・アセン2世の娘(庶子)。共に子供は生まれなかった。