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ボゴール

ボゴール (Bogor) はインドネシア西ジャワ州にある都市。首都ジャカルタの南60kmに位置している。人口は約118万人(2021年)。

ボゴール
Kota Bogor

ボゴール宮殿 (上)
市旗 市章
愛称 : Kota Hujan (City of Rain)
位置

州内の位置
位置
ボゴール
ボゴール (ジャワ島)
ボゴール
ボゴール (インドネシア)
座標 : 南緯6度36分 東経106度48分 / 南緯6.600度 東経106.800度 / -6.600; 106.800
行政
インドネシア
  西ジャワ州
 市 ボゴール
市長 Bima Arya Sugiarto
地理
面積  
  市域 118 km2
標高 265 m
人口
人口 (2021年現在)
  市域 1,183,090人
  備考 統計[1]
その他
等時帯 インドネシア時間 ()
夏時間 なし
市外局番 0251
公式ウェブサイト : http://www.kotabogor.go.id/

概要

統計上はジャカルタ都市圏(ジャボデタベック)に含まれる。周辺を(ボゴール県)(英語版)に囲まれている。ボゴールには、ボゴール宮殿ボゴール植物園ボゴール農科大学(国際林業研究センター)(英語版)などがある。ボゴールは「雨の町」(Kota Hujan) ともよばれ、乾季の間でも雨が多い。この都市は、1945年8月17日までバイテンゾルフ(バウテンゾルグ、ボイテンゾルグ、Buitenzorg)と呼ばれていた。

歴史

 
スンダ王国の首都は、パクアン・パジャジャランにあった。

前植民地時代

 
バイテンゾルフ近郊にあるパクアン・パジャジャランの位置を示すオランダの地図

現在のボゴールに人が定住したのは、5世紀のタルマヌガラ王国の時代だと言われている[2][3][4]。近隣のシュリーヴィジャヤ王国との幾たびかの争いを通じて、タルマヌガラ王国は(スンダ王国)に替わった。669年、スンダ王国の首都が、(チリウン川)と(チサダネ川)の間に建設され、「パクアン・パジャジャラン」と名付けられた。これは古スンダ語で「平行した(川)の間の土地」という意味である。これが、現在のボゴールの先祖となった[5][6]

 
1600年前のタルマヌガラ王国時代の石に刻まれた碑文である「プラサスティ」。

続く数世紀の間、パクアン・パジャジャランは、中世インドネシアの最大の都市の一つとなり、その人口は48,000人に達した[6]。パジャジャランという名前は、王国の名前としても使われ、首都は、単にパクアンと呼ばれた[6][7][8][9][10]。この時代の歴史は、公的、宗教的な目的で使われるサンスクリットで書かれている。それはインドのパッラヴァ朝の文字を使用して岩石の表面に彫られている。これはプラサスティと呼ばれている[3][11]。ボゴール周辺で見付かったプラサスティは、形の上でも文書のスタイルもインドネシアの他の地域で見つかったものとは異なっている。このプラサスティは、ボゴールの重要な見所の一つとなっている[3]

9~15世紀の間、首都はパクアンと王国の他の都市の間で動いていたが、(シルワンギ王) (Sri Baduga Maharaja) の戴冠式の日(1482年6月3日)にパクアンに戻る。1973年以降、この日はボゴールの市の祝日として祝われている[12][13]

1579年、パクアンはバンテン王国に占領され、ほぼ完全に破壊され、スンダ王国は消滅した[14]。この街は捨てられ、数十年間は無人の地となった[6][12]

植民地時代

オランダ東インド会社

17世紀後半、他の西ジャワと同じく、パクアンは公式にはバンテン王国の支配下であったが、次第にオランダ東インド会社(VOC)の統治下に入っていった。公式な移行はバタヴィアの王太子とVOCとの間に成立した条約によってである(1684年4月17日)[15]

最初の、そして一時的なパクアンにおける定住は、タヌウィジャヤ中尉によるキャンプである。彼はVOCに雇われたスンダ人で、1687年にこの地を開発するために派遣された[8][15][16]1699年1月4日から5日にかけての(サラク火山)(インドネシア語: Gunung Salak)による噴火によって多大な被害を受けた。しかし森林火災が多くの樹木を焼いたため、結果的に稲田やコーヒープランテーション用地が残された[8]。短期間に、パクアン周辺でいくつかの農業地開発が行われた。その中でも最大なのが「カンプン・バリ」(新しい村)であった[3]1701年に行政地区を創設し、タヌウィジャヤがこの地の長官に選ばれた。彼は現在のボゴール県の創始者とみなされている[15][16]

 
1907年、総督の住まいとして使われていたボゴールの宮殿

1703年にはVOCの総監(アブラハム・ファン・リーベック)(ケープ・タウンの創始者で、VOCの総督となったヤン・ファン・リーベックの息子)を長とする探検が進められ、この地の開発がさらに進んだ[8][15]。ファン・リーベックの探検は、パクアン遺跡の詳細な研究を推し進め、多くの考古学調査と発見がなされた。その中にはプラサティも含まれる。また、VOCの従業員のための住まいも建てられた[16]。行政の中心でありながら暑いバタヴィアと比べて、パクアンは、その地理的条件と穏やかな気候からオランダ人に好まれた[16]1744年から1745年に、総督の住まいがパクアンに建設され、夏の間はここに住むようになった。

1746年、総督(グスターフ・ウレム・ファン・インホフ)の命令によってオランダ人居住区と九つの現地人居住区が一つの行政区画に統一され、「バイテンゾルフ」という名の宮殿が建てられた。これは、オランダ語で「憂いの外」という意味で、プロイセンフリードリヒ大王ポツダムの近郊に夏の宮殿として建てた「サンスーシー」と同じ意味である(ちなみに日本では「無憂宮」と訳される)[17][18]。ほぼ同じ時期に、この地の地方名としての「ボゴール」という名前が初めて記録に現れる[19]1752年4月7日の行政報告には、宮殿に隣接するバイテンゾルフの一部として記載されている。「ボゴール」はバイテンゾルフに代わって街全体を指す、この土地の別の名前として使われるようになった[17]。この名前は、サトウヤシ (Arenga pinnata) を指す「BOGOR」というジャワ語から来ていると考えられており、現在でもインドネシア語で使われている[19][20]。別の説では、古ジャワ語でを意味する「bhagar」から来たとも、この地の住人が「Buitenzorg」のスペルを書き違えたことからきた、とも言われている[19]

18世紀後半から19世紀にかけて、この街は急速に発展した[16]。この発展をもたらした理由の一つには、イギリスによる占領がある。1811年から1815年にかけて、オランダ領東インドはイギリスによって占領された。当時オランダを占領していたナポレオンがフランス領土とすることを妨げるため、イギリスはジャワや他のスンダ諸島に上陸した。イギリス行政の長であった(スタンフォード・ラッセル)は行政の中心をバタヴィアからバイテンゾルフに移動し、新しい効率的な行政方法を導入した[16][21]

オランダ王国の支配

 
1920年代、バイテンゾルフ植物園から見るサラク火山

バイテンゾルフが、オランダに返還された後、この地はVOCというよりもオランダ王国の支配下にはいった。バイテンゾルフの宮殿は総督の夏の住居として復元された。1817年には近くに植物園が設置された。これは当時(19世紀)としては世界最大の植物園だった[16][17][22][23]

1834年10月10日、地震によって引き起こされたサラク火山の噴火により、バイテンゾルフは重大な被害を蒙った[16][24]。この地の地震活動を考慮に入れるかたちで、宮殿や行政の建物が建て替えられた[16]1845年の総督の規定により、ヨーロッパ人、中国人とアラブ人の市内の居住地は分けられることになった[16]

1860年から1880年に、バイテンゾルフに植民地最大の農業学校が建てられた。市図書館、自然科学博物館、生物、化学、獣医学などの科学研究所もこの時期に設立された。19世紀の終わりまでに、バイテンゾルフはインドネシアの中で最も発達し、西欧化された都市の一つになった[8][16]

1904年、バイテンゾルフは公式にオランダ領東インドの行政中心となった。しかし、実質の行政はバタヴィアに残されていた。バタヴィアには行政組織のほとんどと知事の主要な事務所が残されていた[3][17]。この状況は1924年の行政改革によって変革された。この改革によって植民地は州に分割され、バイテンゾルフは西ジャワ州の中心とされた[3]

1942年から1950年

 
第二次世界大戦初頭、バイテンゾルフ上空を飛ぶオランダ空軍機
 
ボゴールに於ける、パスンダン州知事のR. A. A. ムハッラムとその秘書(1948年

第二次世界大戦の間、バイテンゾルフとオランダ領東インドの全域は日本の支配下になった。この占領は1942年3月6日から1945年の夏まで続いた[25]。地元の人々の愛国心を盛り上げる(また、オランダに対する反抗心を盛り上げる)日本の努力の一つとして、この街に「ボゴール」という名前が与えられた[23]。この町は、インドネシア軍であるPETA(Pembela Tanah Air、祖国の守護者)の主要な訓練センターの一つでもあった[26]

1945年8月17日、スカルノハッタは独立を宣言した。しかし、オランダは街や他の地域の支配を恢復した。1948年2月に、ボゴールは西ジャワの半独立の地域に組み込まれた(インドネシア語:Negara Jawa Barat)。これは、1948年4月にパスンダンと名称を変更した(インドネシア語:Negara Pasundan)。この州はオランダにより造られたもので、以前の植民地をオランダを中心とする連邦に組み込むためのものだった[27][28]。1949年12月に、パスンダンは1949年8月23日から11月2日に行われたオランダ - インドネシア円卓会議によって造られたインドネシア連邦共和国(インドネシア語:Repubulik Indonesia Serikat, RIS)に参加した[28][29]1950年2月には、インドネシア共和国軍との争いに負けた結果として、パスンダンはインドネシアの一部となり、1950年8月には正式に国の一部となり[28][29]、地名も正式にボゴールとなった[12][30]

インドネシアの一部として

 
2018年のボゴールからの(サラク火山)の眺め

独立したインドネシアの一部として、ボゴールは植民地時代に造られた基盤があったこともあり、国と西ジャワの文化、科学、経済発展に重要な役割を果たしている。植民地時代の総督の夏の宮殿がインドネシア大統領の夏の宮殿に変えられたことも、この特別な地位を強化した[8][31]1990年代から2000年代に、この街では定期的に多くの国際的な行事が行われている。例えば、アジア・太平洋研究所の大臣レヴェルの会合や、1994年11月15日に開催されたAPECなどがそれである[32]2008年以降、新しいキリスト教の教会を建てることでイスラーム原理主義者との争いが起きている [33]

交通

鉄道

蘭印政府が設立した国鉄により、バタビア(現ジャカルタ)とバイテンゾルフ(現ボゴール)を結ぶ鉄道が1873年に開通した。この路線は1884年にバンドンまで延長され、1884年から1888年にかけてスラバヤからマディウン-ソロ-ジョグジャカルタへ路線が開通。その後も延長され、ジャカルタ - スラバヤ間は蘭印鉄道会社と蘭印国鉄を乗り継ぐことで1894年に鉄道で結ばれた。1906年にはジャカルタからブカシ-チカンベックを経由してバンドンに至るルートが開通する。ジャカルタ - スラバヤ間は亜幹線化したが、ジャカルタ - ボゴール間は1930年に直流1,500Vで電化された。

 
ボゴール駅の205系

現在は、ジャカルタ - ボゴール間はコミューターライン、ボゴール - バンドン方面はインドネシア鉄道会社 (PT. Kereta Api) が運行している。KRLジャボタベックの「ボゴール駅」とインドネシア鉄道会社の「ボゴール・パレタン駅」は約200m離れていて、直通運転はしていない。バンドン方面へスカブミまで57キロメートルを結ぶパングランゴ鉄道が2013年に復活した。高級車両1両と一般車両3両から成る[34]

教育機関

姉妹都市

脚注

  1. ^ “statisticstimes”. 2022年12月13日閲覧。
  2. ^ Yoseph Iskandar (1997) (Indonesian). Sejarah Jawa Barat: Yuganing Rajakawasa. Bandung: Geger Sunten 
  3. ^ a b c d e f “History of Bogor City”. 2010年5月28日閲覧。
  4. ^ Pandji R. Hadinoto. “Jakarta : Lima Belas Abad Menghadang Banjir” (Indonesian). 2010年5月28日閲覧。
  5. ^ “Pakuan ibukota Kerajaan Sunda” (Indonesian). 2010年5月28日閲覧。
  6. ^ a b c d “Bogor Tunas Pajajaran” (Indonesian). 2010年5月29日閲覧。
  7. ^ “Sundanese people” (Russian). Etnolog.ru. 2010年5月28日閲覧。
  8. ^ a b c d e f “Asal dan arti nama Pakuan” (Indonesian). 2010年5月29日閲覧。
  9. ^ “Юго-Восточной Азии цивилизация (Civilization of South-East Asia)” (Russian). Kolier Encyclopedia. 2010年6月18日閲覧。
  10. ^ Vladmir Bulat. “Political map of Eurasia, 700 AD”. 2010年6月18日閲覧。
  11. ^ “Bogor” (Russian). Great Soviet Encyclopedia. 2010年6月17日閲覧。
  12. ^ a b c “Sejarah pemerintahan di kota Bogor” (Indonesian). Pemerintah Kota Bogor. 2010年5月17日閲覧。
  13. ^ “Sejarah kota Bogor” (Indonesian). 2010年6月21日閲覧。
  14. ^ (Russian) Всемирная история (World History). 4. Moscow: Мысль. (1958). p. 654 
  15. ^ a b c d “Peraturan Daerah Kota Depok nomor 01 tahun 1999” (PDF) (Indonesian). Walikota Depok (1999年). 2010年6月21日閲覧。
  16. ^ a b c d e f g h i j k “” (Indonesian). 2011年7月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年6月21日閲覧。
  17. ^ a b c d “Buitenzorg”. Encyclopædia Britannica Online (1911年). 2010年11月1日閲覧。
  18. ^ “Sejarah wilayah Bogor”. 2010年6月17日閲覧。
  19. ^ a b c “Pembukaan. 1. Asal dan Arti Nama Bogor” (Indonesian). 2010年10月1日閲覧。
  20. ^ (Indonesian) Kamus Besar Bahasa Indonesia. Jakarta: (Balai Pustaka). (1996). p. 140 
  21. ^ “RAFFLES, Thomas Stamford. The History of Java”. 2010年6月16日閲覧。
  22. ^ Sharon E. Kingsland (2005) The evolution of American ecology, 1890–2000 ISBN (0-8018-8171-4), p. 30
  23. ^ a b V. M. Kotlyakov: “Богор” (Russian). Yekaterinburg: Dictionary of modern geographical names (2006年). 2010年5月28日閲覧。
  24. ^ “Bogor Palace to hold open house for city anniversary celebration”. Jakarta Post (2010年3月6日). 2010年6月21日閲覧。
  25. ^ Edwin Solahuddin (2009年2月28日). “Japanese Invaded Java”. VIVA news. 2010年6月16日閲覧。
  26. ^ “Sejarah Perjuangan Ummat Islam Indonesia” (Indonesian) (2004年1月6日). 2010年6月16日閲覧。
  27. ^ “Indonesian States 1946–1950”. Ben Cahoon. 2010年6月16日閲覧。
  28. ^ a b c Всемирная история. 12. Moscow: Мысль. (1979). pp. 356–359 
  29. ^ a b К. Pimanov. “Indonesia” (Russian). Энциклопедия "Кругосвет" (Encycloopedia Krugosvet). 2010年6月16日閲覧。
  30. ^ “Undang-Undang no. 16 tahun 1950 tentang pembentukan daerah-daerah kota besar dalam lingkungan propinsi Djawa Timur, Djawa Tengah, Djawa Barat dan dalam daerah istimewa Jogjakarta (Law of Indonesia No. 16 1950 on creation of settlements in Eastern Java, Central Java, Wester, Java and Jacarta)” (Indonesian). 2010年6月16日閲覧。
  31. ^ “Istana Bogor” (Indonesian). 2010年6月16日閲覧。
  32. ^ “”. 2010年11月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年6月16日閲覧。
  33. ^ Haryanto, Ulma (2011年1月15日). “Delight After Indonesia's Highest Court Backs Bogor Church”. (Jakarta Globe). http://www.thejakartaglobe.com/home/delight-after-indonesias-highest-court-backs-bogor-church/417128 2011年1月16日閲覧。 
  34. ^ “PT KAI revives Bogor-Sukabumi route” (2013年11月10日). 2016年4月19日閲覧。

関連項目

外部リンク

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