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ホレイス・ニュートン・アレン(Horace Newton Allen、1858年4月23日 - 1932年12月11日)は、朝鮮で活動したアメリカ合衆国出身のプロテスタント宣教師・医師・外交官。朝鮮名として安連(アルリョン、안련)を名乗った。米朝修好通商条約締結後、初めて朝鮮に上陸した宣教師であった[1]。
生涯
1858年、オハイオ州デラウェア (Delaware, Ohio) で生まれる。1881年、地元のオハイオ・ウェスリアン大学で理学士号を取得後、シンシナティのマイアミ医科大学(Miami Medical School)で医学を修め、1883年に卒業した。アレンは希望により、長老派教会の海外宣教委員会から中国への宣教師に任命された。
1年後、アレンは駐朝鮮米国領事館付きの医師として朝鮮に派遣されることになった。1884年9月20日、アレンは家族とともに朝鮮に到着するが、まもなく甲申政変に巻き込まれることになる。政変の中で、国王高宗側近の(閔泳翊)が刺されて負傷する事件が発生すると、ドイツ公使メレンドルフはアレンに閔泳翊の治療を要請した。アレンの施した近代医療により閔泳翊は3ヶ月で回復し、このことでアレンは高宗の信任を得ることになった。
アレンは近代西洋医学が朝鮮の人々の利益になることを説き、王からの資金と支援を受けて漢城(ソウル)に「広恵院」(まもなく高宗によって「済衆院」(ko)に改名)を設置した。この病院は朝鮮初の近代医療機関であり、現在の延世大学校付属病院の前身となっている[2]。アレンの活動は、キリスト教に対する排斥政策をとってきた朝鮮王朝が宣教師の入国を許可し、伝道や学校・病院の建設といった活動を許可する方向へと政策を転換させる契機となった。
朝鮮における国王・政府との親密な関係から、アレンは外交官としても活動することになった。1887年、朝鮮王朝が送り出した最初の遣米使節に随行して、アレンはワシントンまで赴いている。1890年には駐朝アメリカ公使館の書記官となり、1897年には駐韓アメリカ公使・総領事となった。朝鮮初の電力会社や鉄道会社の設立が米国資本の導入によっておこなわれたのは、アレンの存在が大きい。
日露戦争中、アレンはアメリカ政府の不介入政策を積極的に批判した。1903年に一時帰国した際には、韓国を日本から救うべきとセオドア・ルーズベルト大統領に進言した。しかし、日本の対韓政策を支持する大統領に叱責され、以降は親韓的な姿勢をあまり取らなくなった[3]。米国は1905年3月頃に公使を(エドウィン・V・モーガン)に交代することを決め[4]、アレンは同年6月9日に韓国を去った[5]。アレンが去った後、同年7月に日米で桂・タフト協定が締結されることとなる。
アレンは当時再発見された高麗青磁を大量に収集し米国に持ち帰った。現在このコレクションはフリーア美術館に所蔵されている。
1932年、アレンはオハイオ州トレドで没した。
脚注
- ^ 馬越徹「韓国近代大学の成立と展開」p.43 名古屋大学出版会 1995
- ^ Cho, Su-hyeon (최수현) (2008年5月10日). “서울 온 알렌 박사의 두 증손녀 할아버지와 '1세기 만의 대화'” (Korean). The Chosun Ilbo2010年1月8日閲覧。
- ^ 韓国保護国化過程における日英関係 : イギリスの対韓政策を中心に - 片山慶隆
- ^ 米國公使 「알렌」 後任으로 「에드윈 모간」 任命 件 韓国史データベース
- ^ Former Chiefs of Mission in Korea 2011年9月10日, at the Wayback Machine. 米国大使館 韓国ソウル
関連項目
- 韓国のキリスト教
- 延世大学校医療院 - 広恵院の後身
- ホレイス・グラント・アンダーウッド - 長老派宣教師