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プブリウス・コルネリウス・ケテグス

プブリウス・コルネリウス・ケテグス(Publius Cornelius Cethegus、生没年不明)は、紀元前2世紀初頭の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前181年執政官(コンスル)を務めた。


プブリウス・コルネリウス・ケテグス
P. Cornelius L. f. P. n. Cethegus
出生 不明
死没 不明
出身階級 パトリキ
氏族 コルネリウス氏族
官職 按察官紀元前187年
法務官紀元前185年
執政官紀元前181年
前執政官紀元前180年
指揮した戦争 ローマ・ガリア戦争
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出自

ケテグスはパトリキ(貴族)であるコルネリウス氏族の出身であるが、コルネリウス氏族はローマでの最も強力で多くの枝族を持つ氏族でもあった[1]。ケテグスのコグノーメン(第三名、家族名)を持つ人物としてはマルクス・コルネリウス・ケテグスが記録に現れる最初の人物である。カピトリヌスのファスティによれば、ケテグスの父プラエノーメン(第一名、個人名)はルキウス、祖父はプブリウスである[2]。コルネリウス・ケテグス家の系譜はあまりよく分かっていない[3]

経歴

ケテグスの政歴は紀元前189年ごろに始まると推定される。アンティオキア戦争後の新たな国境を定めるために小アジアに10人からなる使節が派遣されるがティトゥス・リウィウスはその9番目に、プブリウス・コルネリウス・レントゥルスの名前を記している[4]。この当時にこの名前をもつローマ人は紀元前203年のプラエトル(法務官)プブリウス・コルネリウス・レントゥルス・カウディヌスのみである。しかし、彼の経歴と年齢を勘案すると、もっと名簿の上位にあって良いはずだ。このため、この人物はレントゥルスではなく、ケテグスではないかと推察されている[5][6]。実際、リウィウスは紀元前181年の執政官ケテグスをも、プブリウス・コルネリウス・レントゥルスと誤記している[7]

ケテグスに関する明確な記録は紀元前187年に始まる。ケテグスはアウルス・ポストゥミウス・アルビヌス・ルスクスと共にアエディリス・クルリス(上級按察官)に就任した[5][8]。この年の競技会の最中にキルクス・マクシムス(大戦車競技場)の柱の固定が十分でなく、ポレンティア女神の像の上に落ちて像が倒れてしまった。これは悪い前兆とみなされ、元老院は競技会を一日長くすべきであると決定した。また倒れた像の代わりに2つの像を建て、そのうちの1つは金メッキされるべきだと決定した[9]

紀元前185年、ケテグスはプラエトル(法務官)に就任したが、法務官の役割分担に関しては現存する資料がない[10]紀元前181年、ケテグスは執政官に就任する。リウィウスやそれを参照したと思われるウァレリウス・マクシムスはこの年の執政官をプブリウス・コルネリウス・レントゥルスとしているが[7][11]、これは明らかな誤りである[5]。カピトリヌスのファスティや他の資料から、パトリキ執政官はプブリウス・コルネリウス・ケテグス、プレブス(平民)執政官はマルクス・バエビウス・タンピルスである[12]。元老院の決定により、両執政官は共和政ローマで初めて選挙の収賄罪に関する法律(バエビウス法)を民会に提出した[13]

両執政官はリグリアを担当することとなり、翌年にもプロコンスル(前執政官)としてインペリウム(軍事指揮権)を維持した。ケテグスとタンピルスは現地のアプアン属を服属させ、彼らをサムニウムに移住させた。これ以降、リグリアはリグリア・コルネリウスおよびリグリア・バエビウスと呼ばれるようになる。ローマに戻ると、両執政官は凱旋式を挙行した(但し、凱旋式のファスティのこの部分は欠落)。軍事的勝利ではない理由で凱旋式を実施したのは、彼らが初めてであった[14]

紀元前173年、ケテグスは再び記録に登場する[15][16]。征服したリグリアとガリア・キサルピナの土地を植民者に分配するための10人委員会の一人がケテグスであった。10人委員会は、ローマ市民には一人あたり10ユゲラ(約2.5ヘクタール)、同盟都市市民には3ユゲラ(0.75ヘクタール)を分配することとした[17]

脚注

  1. ^ Bobrovnikova T., 2009, p. 346-347.
  2. ^ カピトリヌスのファスティ
  3. ^ Cornelius 83ff, 1900 , s. 1277.
  4. ^ リウィウス『ローマ建国史』、XXXVII, 55, 7.
  5. ^ a b c Cornelius 95, 1900, s. 1280.
  6. ^ Cornelius 214, 1900 , s. 1379.
  7. ^ a b リウィウス『ローマ建国史』、XL, 18, 1.
  8. ^ Broughton, 1951 , p. 368.
  9. ^ リウィウス『ローマ建国史』、XXXIX, 7, 8—9.
  10. ^ Broughton, 1951 , p. 372.
  11. ^ ウァレリウス・マクシムス『有名言行録』
  12. ^ Broughton, 1951 , p. 383.
  13. ^ リウィウス『ローマ建国史』、XL, 19, 11.
  14. ^ Cornelius 95, 1900 , s. 1280-1281.
  15. ^ Cornelius 95, 1900 , s. 1281.
  16. ^ Broughton, 1951 , p. 410.
  17. ^ リウィウス『ローマ建国史』、XLII, 4, 4.

参考資料

古代の資料

研究書

  • Bobrovnikova T. Scipio African. - M .: Young Guard, 2009 .-- 384 p. - (ISBN 978-5-235-03238-5) .
  • Broughton R. Magistrates of the Roman Republic. - New York, 1951. - Vol. I. - P. 600.
  • Münzer F. Cornelius 83ff // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1900. - T. VII . - S. 1276-1277 .
  • Münzer F. Cornelius 95 // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1900. - T. VII . - S. 1280—1281 .
  • Münzer F. Cornelius 214 // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - 1900. - T. VII . - S. 1379-1380 .

関連項目

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