プブリウス・アエリウス・パエトゥス(ラテン語: Publius Aelius Paetus、生没年不詳)は、紀元前4世紀の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前337年に執政官(コンスル)を務めた。
出自
経歴
執政官(紀元前337年)
紀元前337年、パエトゥスは執政官に就任。同僚執政官はガイウス・スルピキウス・ロングスであった[1]。元老院は、ローマの同盟国であるアウルンキ族(en)がシディキニ族(en)と戦争となったため(シディキニ・アウルンキ戦争、en)、両執政官に対してこれに介入するよう命令した。しかし、両者共に躊躇したため介入が遅れ、アウルンキはその首都アウルンカ(en)を放棄してスエッサ(現在のセッサ・アウルンカ)に逃げ込んだ。両執政官の不仲にいらだった元老院はガイウス・クラウディウス・レギッレンシスを独裁官(ディクタトル)に任命した[2]。しかし、その就任が宗教的に不適切とみなされ、レギッレンシスは直ぐに辞任した[3]。
騎兵長官(紀元前321年)
紀元前321年、カウディウムの戦いの敗北後、元老院は捕虜となった執政官ティトゥス・ウェトゥリウス・カルウィヌスと(スプリウス・ポストゥミウス・アルビヌス)を解任し[4]、翌年の選挙を管理するためにクィントゥス・ファビウス・アンブストゥスが独裁官に任命された[5]。アンブストゥスはパエトゥスをマギステル・エクィトゥム(騎兵長官、独裁官副官)に指名した。しかし、独裁官任命が通常の手続きで行われなかったことから、アンブストゥスは直ぐに辞任してマルクス・アエミリウス・パプスが独裁官に[6]、ルキウス・ウァレリウス・フラックスが騎兵長官に任じられた[5]。
鳥占官(紀元前300年)
紀元前300年、オグルニウス法の施行により、神官職がプレブスに開放されることとなった。アウグル(鳥占官)の定員は4名からプレブス5名を含む9名に増員され、パエストゥスは最初のプレブス出身アウグルの一人に選ばれた[7][8]。
脚注
参考資料
- ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』
- T. Robert S. Broughton , The Magistrates of the Roman Republic: Volume I, 509 BC - 100 BC , New York, The American Philological Association, al. "Philological Monographs, number XV, volume I,"1951, 578 p.