フョードル3世(Фёдор III Алексеевич, 1661年6月9日/ユリウス暦5月30日 - 1682年5月7日/ユリウス暦4月27日[1]、在位:1676年 - 1682年)はロシア・ツァーリ国のツァーリ。アレクセイ・ミハイロヴィチの3男、母はマリヤ・ミロスラフスカヤ。
フョードル3世 Фёдор III Алексеевич | |
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全ロシアのツァーリ | |
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在位 | 1676年1月29日/ユリウス暦1月19日 - 1682年5月7日/ユリウス暦4月27日 |
戴冠式 | 1676年6月18日/ユリウス暦6月28日 |
別号 | モスクワ大公 |
全名 | フョードル・アレクセーエヴィチ・ロマノフ |
出生 | 1661年6月9日/ユリウス暦5月30日 モスクワ |
死去 | 1682年5月7日(20歳没)/ユリウス暦4月27日 モスクワ |
配偶者 | アガフィヤ・グルシェツカヤ |
マルファ・アプラークシナ | |
子女 | イリヤ |
王朝 | ロマノフ朝 |
父親 | アレクセイ・ミハイロヴィチ |
母親 | マリヤ・ミロスラフスカヤ |
1676年、父の死に伴い14歳で即位。外戚のミロスラフスキー家によって継母ナタリアの一族であるナルイシキン派の重臣アルタモン・マトヴェーエフが追放された後は、ヴァシーリー・ゴリツィン公が実権を掌握した。
宗教問題ではモスクワ総主教ニーコンの名誉回復を行ったものの、古儀式派への弾圧は継続された。軍隊改革を断行、軍の指揮系統を家門で決める(門地制)を廃止して、能力本位の軍隊へと移行させる。さらに1680年からは土地調査も試みられた。外交では継続中の露土戦争が終結し、1681年のバフチサライ条約でロシア側のキエフ領有が承認された。
フョードル3世は、人文主義者の家庭教師(シメオン・ポロツキー)によって、当時のロシア貴族社会ではめずらしく高度な教育を受け、文学的才能にも恵まれていた。ラテン語とポーランド語を理解したと言われる(フョードル3世は父と共にポーランド王ヤン2世カジミェシュの後継者候補として挙げられていた)。やや病弱だったが、長時間の公務はこなせる程度だったらしい。
1680年、正教を奉じるポーランド系貴族の娘アガフィヤ・グルシェツカヤと結婚し、宮廷では彼女の持ち込んだ西欧風の礼儀作法やファッションが流行した。しかしアガフィヤは最初の出産で子供と一緒に亡くなり、フョードル3世は悲嘆にくれた。世継ぎを望むミロスラフスキー家の説得で再婚した2か月後、後継者を指名しないまま病死した。この後、弟のイヴァン5世・ピョートル1世が即位、ゴリツィンと結んだ姉ソフィアが1689年まで摂政として君臨した。
系図
ミハイル・ロマノフ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マリヤ | アレクセイ | ナタリヤ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フョードル3世 | イヴァン5世 | エヴドキヤ | ピョートル1世 | エカチェリーナ1世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エカチェリーナ | アンナ | アレクセイ | アンナ | エリザヴェータ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アンナ | ピョートル2世 | ピョートル3世 | エカチェリーナ2世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
イヴァン6世 | パーヴェル1世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アレクサンドル1世 | ニコライ1世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アレクサンドル2世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アレクサンドル3世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ニコライ2世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
- ^ Fyodor III tsar of Russia Encyclopædia Britannica