» www.Giftbox.Az - Bir birindən gözəl hədiyyə satışı
ウィキペディアランダム
毎日カテゴリ
共有: WhatsappFacebookTwitterVK

ピート・ベスト

ランドルフ・ピーター・ベスト英語: Randolph Peter Best1941年11月24日 - )は、イギリスドラマービートルズのメンバーとしてメジャーデビューする直前まで在籍していたことで知られ、「5人目のビートルズ」と呼ばれる。

ピート・ベスト
ピート・ベスト(メリーランド州、2006年)
基本情報
出生名 ランドルフ・ピーター・ベスト
生誕 (1941-11-24) 1941年11月24日(81歳)
英領インド マドラス管区 マドラス
出身地 イングランド リヴァプール
学歴 (リヴァプール・カレッジエイト・スクール)(英語版)リヴァプール
ジャンル
職業
担当楽器
活動期間
共同作業者
  • ビートルズ
  • (リー・カーティス&ジ・オール・スターズ)(英語版)
  • ピート・ベスト・コンボ
  • ピート・ベスト・バンド
公式サイト Official PETE BEST Website

経歴

インドマドラスにて、軍人である父親のジョン・ベスト二世と赤十字社で医師を志していた母親の(モナ)(英語版)1924年 - 1988年)の間に長男として生まれる。4歳の時に第二次世界大戦が終わり、イギリスの植民地支配が終焉に向かったため、ピートを含むベスト家は帰国してリヴァプールに住んだ。(11-プラス)(英語版)試験に合格し、リヴァプール・カレッジエイト・スクールに進学。父はボクシングの興行主となる。

 
カスバ・コーヒー・クラブ

母モナが1954年のダービーネヴァーセイダイの大穴馬券を当て、その資金でリヴァプール郊外に屋敷を購入した。モナは屋敷を改装し、1957年に地下室でコーヒーバー「(カスバ・コーヒー・クラブ)(英語版)[2]」を始めた。これがきっかけとなってベストはドラムスを始める。また、その開店記念のイベントとしてバンドの生演奏も行われたが、そのバンドのひとつがビートルズの前身であるクオリーメンで、そのメンバーだったジョン・レノンポール・マッカートニージョージ・ハリスンスチュアート・サトクリフとはこの時に知り合ったと伝えられている[3]

1960年8月、カレッジエイトを卒業した直後、西ドイツハンブルクでの公演のためドラマーを必要としていたビートルズに加入。1962年8月に解雇されるまで在籍する。その直後、同じくリヴァプールの地元バンドのリー・カーティス・アンド・ザ・ディトゥアーに加入。このバンドは後に(リー・カーティス・アンド・ジ・オールスターズ)と改名し、デッカ・レコードでシングルデビューしている。

1963年6月、ベスト自身がリーダーとなってオリジナル・オールスターズを結成。その後ピート・ベスト・アンド・ジ・オールスターズと改名し、1964年4月、デッカ・レコードと契約。レコード会社の要請でピート・ベスト・フォーと改名。1965年、アメリカ公演旅行の直前にメンバーの1人が脱退したためピート・ベスト・コンボと改名している。

1967年、芸能界から事実上引退した。1年間、パン工場でアルバイトした後、市役所の職員に応募して合格。職業安定所に勤務した。

1988年、ピート・ベスト・バンドを結成。職業安定所の民営化につき早期退職し、以降はバンドに専念する。

人柄

カレッジエイト時代の成績は優秀で、ラグビー部では主将を務めていた。また、整った風貌で女子からの人気が高かった。ビートルズ在籍時も女性に1番人気があったとされ、地元の音楽誌での扱いもメンバーの中で1番大きかった。頭脳明晰で温厚だが、ビートルズのメンバーで唯一マッシュルームカットを受け入れず、最後までリーゼントで通している事などから、やや協調性に欠ける性格だったのではないかと言われている。

幻のビートルズ・メンバー

 
近年のピート・ベスト

ビートルズの無名時代を知る人物であり、また下積み時代にメンバーと共に切磋琢磨し、地元の人気バンドに押し上げた功労者だが、レコードデビューを目前にして突然ビートルズを脱退した(実態は解雇)。

ビートルズはデビュー曲「ラヴ・ミー・ドゥ」のレコーディングまでこぎ着けたが、その頃には度々ギグを休むようになっていたことや、ベストはレコーディングをするだけの技量が伴っていなかったためにプロデューサーのジョージ・マーティンがドラマーの交代を提案、それは同時にレノン、マッカートニー、ハリスンも考えていることだった。ベストひとりだけ最後までマッシュルームカットにはせずリーゼントのままだったことからも推測できるように3人と溶け込んでいなかったことも重なり、メジャーデビュー直前でグループを解雇された。

そしてハンブルク公演で親交のあった(ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ)のドラマーであったリンゴ・スターがドラムを担当することになった。ただし、スターの加入はレコーディング直前であったことと、この加入話がメンバー主導で進められておりマーティンの与り知るところではなかったため、すでにマーティンはセッション・ドラマーのアンディ・ホワイトを手配しており、結局、ホワイトの演奏が公式版となった。

しかし脱退の原因・理由については未だ不明な点が多く、現在まで様々な憶測を呼んでおり、諸説がある。ビートルズのメンバー側の発言と、ベストの発言はそれぞれ以下の通りである。

ジョン・レノンの発言

「全く罪のない奴だったけど鋭さがなかった。他のみんなは頭の回転が早かったけどピートは俺たちにどうしてもついてこられなかった。そもそもハンブルクへ行く時にドラマーがいなくて、とりあえず入れただけだ。ルックスが良くて女の子にもてたから、まともにドラムが出来なくても構わなかった、ちゃんとしたドラマーが見つかったら降りてもらうつもりだったのさ」

ポール・マッカートニーの発言

「性格の問題だった。プレイヤーとしてもあまり良くなかったし、僕と違ってピートはまともな奴だったからね[4]

ジョージ・ハリスンの発言

「ピートはギグが終わると、一人で出かけて僕らとつるもうとしなかった。ギグもよく休むし、そんな時リンゴに代役を頼んでた。リンゴがドラムを叩くたびに、「これだ!」と思ってたから、僕が「リンゴを正式なメンバーにしよう」とジョンとポールに働きかけた[5]

ピート・ベストの発言

テレビ番組でのベストの証言によれば、彼が自身の解雇話を聞いてスタジオに向かったところ、顔面を腫らし鼻血を出したスターと、膨れっ面のハリスンに出会ったと言う。スターはピート解雇の理不尽に怒って抗議し、関係者に鉄拳制裁を受けたらしい。

結果

依然として関係者たちの主張は平行線を辿っており、噛み合わない点が多い。

この一件はベストにとっても、ビートルズにとってもその後の運命を大きく左右する出来事だった。結果的にスターがすぐに人気者となって収束したものの、残ったメンバーはベストのファンたちからひどく非難され[注釈 1]、ハリスンが殴打される事件も発生している。

ハリスンはピート在籍中にスターの家を訪ね「バンドに入ってほしい」と打診している(ただし、この時スターは留守だった)。ハリスンは「ピートを辞めさせたのは僕にかなりの責任がある。リンゴを正式なメンバーに入れようとジョンとポールに働きかけたから、2人もそういう考えに傾いていったんだ」と述べている。この発言によれば、ビートルズのメンバーで一番ピート脱退を望んでいたのはハリスンということになる。一方でピートを解雇させたことを最も後悔し、彼を心配していたのもハリスンであり、アンソロジーのインタビューでは「ピートには本当に気の毒な事をしたよ。彼ももっと上達するかもしれなかった。だけど、リンゴがビートルズのメンバーになるのは最初から決まってたようなものなんだ」と発言している。晩年には「僕はビートルズ時代にピートに何もしてあげられなかった。せめて、また彼と会ってピートに当時の事を謝りたかったんだ」とも語っている。

マッカートニーは「マーティンに「ドラマーを替える気はないか?」とはじめに言われたときは「そんな事は出来ない」と断った。でも、俺たちのキャリアがかかってるし、契約がダメになるかもしれない。だからピートを捨てた。プロとしての決断をしたんだ」と語っている。

レノンはマッカートニーとベストは気が合っていなかったと認めた上で、「いつのまにか、ポールがピートに嫉妬して追い出したなんてくだらない話が出来上がっていた」と語っている。

前述の通り、マーティンが技量の劣ったピートを辞めさせたということが定説になってしまったが、マーティンは自身の著書『耳こそすべて(All You Need is Ears)』の中で自身はピート解雇には関与していないと明言している。

真相がいかにせよ、ピートはレノン、マッカートニー、ハリスンの3人に「ビートルズには要らない」とされてしまい、またピートもそれを受け入れたのである。

エプスタインは解雇の言い渡しをメンバーにさせようとした。しかしレノンに「手を汚すのがあんたの仕事だろ?」と返され自身が言い渡す事となる[7]。それゆえレノン、マッカートニー、ハリスンの3人はピートと顔を合わすこともなく、突如エプスタインに呼び出されたピートはその場で解雇を言い渡された。それについて3人は後年「卑怯なやり方だった」と発言している。

2020年に、1962年当時ビートルズのブッキング・マネージャーをしていたジョー・フラネリーにエプスタインが送った手紙が発掘された。その中でエプスタインは、ピートが次のバンド(ジ・オール・スターズ)を始動させたことに際し「彼のグループの引き続きの成功を心から願っている」と書いていた。これは、「ピートが外れた時にみんながバツが悪いと感じていた記録」である[8]

近年

時折ビートルズのトリビュートバンドを結成し、日本でもライブを行っている。また、ピートの「ラヴ・ミー・ドゥ」及びメジャーデビュー前の演奏音源、計10曲が『ザ・ビートルズ・アンソロジー1』に収録された[9]

ピートは「僕は長年の間にジョージともう一度会って話し合いたいと思っていたんだ」と語り、1998年にリヴァプールのとあるカフェで晩年のジョージと念願の再会を果たし愉しく語り合ったという逸話[10]が巷に広まったこともあったが、これはピート自身が「きのうも同じことを聞かれた。ジョージが亡くなった翌日にシカゴでメモリアル・コンサートがあり、そこでジョージの思い出の話をしただけだよ。62年以降、ビートルズの誰にも会っていないんだ」とはっきり否定している[11]

さらにピート自身は「僕はジョンとポール、またはマネージャーのエプスタインに関してはいい思い出はまったくない。ただし、ジョージだけは違う。彼は控え目でナイーブでナイスガイなんだ。彼は失意に陥った僕を密かに慰めてくれ、僕に元気を与えて、将来の夢を語り合ったんだ。僕にとってジョージこそビートルズの真のメンバーだと思っていたんだよ」と述べている[10]。また、ピートとの再会こそ実現しなかったが、ハリスンも上記のコメントにあるように「僕は当時のジョンとポールまたはエプスタインのことを考えると、ピートに何もしてやれなかった。そのことが大変申し訳なく、いつまでも自分の心に引き摺っていた。長年の間に再びピートに会って当時のことをいつか謝りたいと思っていたんだ」とも述べていた。

3年後の2001年、ハリスンは肺癌脳腫瘍により他界。ピートはその訃報に大きく落涙した。その後は黙祷し「僕のビートルズ時代の親友が亡くなった…1人の親友が亡くなったのはとても悲しいことさ。さようならジョージ…今までありがとう。君のことはいつまでも忘れないよ。そして君のために僕も最後までミュージシャンとして全力でみんなのために演奏するよ」と語ったという。

1995年の『ザ・ビートルズ・アンソロジー』発売時、マッカートニーはベストに直接電話して、アルバムに収録されたピート演奏の10曲の印税約800万ポンドを支払うことを提示し、ベストはこれを受け取った。これが、解雇の一件以来ビートルズの元メンバーとピートが交わした初めての会話だった[12]

近年、ベストはビートルズが使用したアビー・ロード・スタジオを訪れている。

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ リンゴ・スターをベストの後任として迎えた直後のキャヴァーン・クラブでの「(サム・アザー・ガイ)」のライブ映像には「ピートを出せ!」という客のヤジが含まれている[6]

出典

  1. ^ a b Unterberger, Richie. “Pete Best | Biography & History”. AllMusic. All Media Group. 2020年12月17日閲覧。
  2. ^ “”. コカ・コーラサイト. 2016年4月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月4日閲覧。
  3. ^ Nicholson 2013, p. xi-xii/7-10.
  4. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 2000, p. 70.
  5. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー & 2000 2000, p. 72.
  6. ^ Leigh, Spencer (2015). The Cavern Club: The Rise of the Beatles and Merseybeat. Carmarthen: McNidder and Grace. p. 137. ISBN (978-0-857-16098-0) 
  7. ^ ザ・ビートルズ・アンソロジー 2000, p. 72.
  8. ^ “ビートルズ、ドラマーのピート・ベストを解雇した直後の手紙がオークションに出品”. NME JAPAN. BandLab UK (2020年10月20日). 2022年10月4日閲覧。
  9. ^ ピート・ベスト・バンド COTTON CLUB JAPAN
  10. ^ a b 東京新聞. (2001年12月1日) 
  11. ^ “1962/8/16、ビートルズのドラマーがピート・ベストからリンゴ・スターに代わった「歴史的」な日”. ニッポン放送 ラジオAM1242+FM93. 2019年3月21日閲覧。
  12. ^ フィリップ・ノーマン『ポール・マッカートニー ザ・ライフ』石垣 憲一、竹田 純子、中川 泉(訳)、KADOKAWA、2017年2月25日、555頁。ISBN (4041043190)。 

参考文献

  • Nicholson, James C. (2013). University Press of Kentucky. ISBN (978-0-8131-4167-1) 
  • ザ・ビートルズ・クラブ、島田陽子『ザ・ビートルズ・アンソロジー』リットーミュージック、2000年9月30日。ISBN (4-8456-0522-8)。 

関連項目

外部リンク

  • Official Pete Best 公式サイト (英語)
ウィキペディア、ウィキ、本、library、論文、読んだ、ダウンロード、自由、無料ダウンロード、mp3、video、mp4、3gp、 jpg、jpeg、gif、png、画像、音楽、歌、映画、本、ゲーム、ゲーム。