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パブロ・ピカソ

パブロ・ルイス・ピカソ[注 1][注 2](Pablo Ruiz Picasso, 1881年10月25日 - 1973年4月8日)は、スペインマラガ生まれの、フランスで制作活動をした画家フランス共産党員[5]

パブロ・ピカソ
Pablo Picasso
ピカソ(1962年)
生誕パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ
Pablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno María de los Remedios Cipriano de la Santísima Trinidad Ruiz y Picasso[1]

(1881-10-25) 1881年10月25日
スペイン王国マラガ
死没1973年4月8日(1973-04-08)(91歳)
フランスムージャン
墓地ヴォーヴナルグ城[2]
北緯43度33分15秒 東経5度36分16秒 / 北緯43.554142度 東経5.604438度 / 43.554142; 5.604438
国籍 スペイン
教育
著名な実績絵画彫刻版画陶芸舞台美術、著作
代表作花のバスケットを持つ裸の少女』、『アビニヨンの娘たち』、『ゲルニカ』、『泣く女』『
運動・動向
配偶者
  • (オルガ・コクローヴァ)(英語版)
    (m. 1918; d. 1955)
  • (ジャクリーヌ・ロック)(英語版)
    (m. 1961)
影響を受けた
芸術家
影響を与えた
芸術家
ピカソのサイン
ピカソ(1908年)

ジョルジュ・ブラックとともに、キュビスムの創始者として知られる。生涯におよそ1万3500点の油絵素描、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻陶器を制作し、最も多作な美術家であると『ギネスブック』に記されている[6][7]

生涯

 
ピカソと妹のローラ、1889年

パブロ・ルイス・ピカソは、1881年10月25日の23時15分に、スペイン南部アンダルシア地方マラガ市で生まれた。父ホセ・ルイス・イ・ブラスコ(1838年-1913年)と母マリア・ピカソ・ロペス(1855–1938)との間に長男として生まれた。父ホセ・ルイスは、鳥などを専門とした画家であり、1880年にマリアと結婚した。

幼いころからピカソは絵を描く才能を発揮し、8歳で初めて油彩を描いている。

1973年の4月8日にフランスのムージャンで死亡した。91歳没。死因は肺水腫であった。ピカソの死後、孤独になった妻(2人目)のジャクリーヌは、1986年に59歳のときに銃で自殺している[8]

年表

 
ピカソの生まれたマラガの家

作風

ピカソは作風がめまぐるしく変化した画家として有名であり、それぞれの時期が「◯◯の時代」と呼ばれている。以下がよく知られている。

青の時代1901年 - 1904年
19歳のとき、親友のカサヘマスが自殺したことに大きなショックを受け[注 3]、鬱屈した心象を、無機顔料プロシア青を基調に使い、盲人娼婦乞食など社会の底辺に生きる人々を題材にした作品群を描いた。現在「青の時代」という言葉は、孤独で不安な青春時代を表す一般名詞のようになっている。
(薔薇色の時代)(英語版)(1904年 - 1906年
(フェルナンド・オリヴィエ)(英語版)という恋人を得て、明るい色調でサーカスの芸人、家族兄弟少女少年などを描いた。薔薇色の時代の代表作『(パイプを持つ少年)(英語版)』の少年はピカソの油彩作品のデッサンのためにピカソのアトリエにボランティアで来ていた10代のモデルだったとされている。.[14][15][16]他にも『(玉乗りの少女)(英語版)』、『(オ・ラパン・アジル)(英語版)』、『(サルタンバンクの一家)(英語版)』、『(軽業師の家族と猿)(英語版)』、『(曲芸師と幼いアルルカン)(英語版)』、『花のバスケットを持つ裸の少女』、『(ガートルード・スタインの肖像)(英語版)』、『(馬を引く少年)(英語版)』等がある。
(アフリカ彫刻の時代)(英語版)(1906年 - 1908年
アフリカ彫刻や古代イベリア彫刻の影響を強く受けた時代。1907年に、キュビスムの端緒となる『アビニヨンの娘たち』が生まれた。
(プロトキュビスム)(英語版)の時代(1907年 - 1908年
1908年にはアフリカ彫刻の影響が色濃く現れながらも、プロトキュビスム(初期キュビスム)が確立され始める。ポール・セザンヌの影響も強くうかがえることから、セザンヌ的キュビスムということもある。1909年5月、ピカソはフェルナンド・オリヴィエとともにパリからバルセロナへ向かい、家族や友人と再会したのちオルタ・デ・エブロへ向かう。6月初旬から9月までのオルタ滞在中、ピカソは風景や静物、そしてフェルナンドをはじめとする人物をモデルに作品を制作した。
分析的キュビスムの時代(1908年 - 1912年
1910年後半から1911年にかけて対象の分析はさらに進む。この頃には、プロトキュビスムの時代にしばしば描かれていた風景画はほとんど描かれることはなくなり、人物や静物が主な対象となる。対象が徹底的に分解され、何が描かれているのか識別することが困難なところにまで到達する。広義的には抽象絵画ともいえるが、あくまで具象絵画である。作品としては『(オルタ・デ・エブロの工場)(英語版)』『(ダニエル=ヘンリー・カーンワイラーの肖像)(英語版)』『(Femme et pot de moutarde)(英語版)』等がある。
総合的キュビスムの時代(1912年 - 1921年
総合的キュビスムでは、印刷物などの紙や新聞紙、壁紙をキャンバスに直接貼り付けるコラージュ(パピエ・コレ)が導入される。これはマルセル・デュシャンレディ・メイドの先駆である。また、分析的キュビスムの時代には抑えられていた色彩表現が復活した。1914年頃から緑を基調とした、装飾的なキュビスムを描き始める。装飾的で優雅な表現であることから、ロココ的キュビスムと呼ばれる。
新古典主義の時代1917年 - 1925年
1914年に勃発した第一次世界大戦のために、ジョルジュ・ブラックや友人が徴兵され、キュビスムの共同作業者や擁護者を失ったこと、バレエ・リュスとの共同制作や、それに伴う初めてのイタリア旅行で古代の都市や遺跡を訪れ、ルネサンスやバロックの名品を目にする機会が重なったことが影響して新古典主義の時代に突入する。妻オルガと息子パウロをモデルにすることが多く、どっしりと量感のある、身体に比べて大きい手足、彫刻のような肉体、額から続く高い鼻などが特徴である。
シュルレアリスム(超現実主義)の時代(1925年 - 1936年
1925年頃にシュルレアリスムに興味を持ち、シュルレアリスムのグループ展に参加する。妻オルガに対する不満が大きく膨らんだ時期に描かれた『三人の踊り子(ダンス)』や『磔刑』などが代表作。
戦争とゲルニカ(1937年
ナチス・ドイツ(実行したのはドイツ空軍のコンドル軍団である)がスペインのゲルニカを爆撃したことを非難する大作『ゲルニカ』や、その習作(『泣く女』など)を描いた。
ヴァロリス期(1947年 - 1953年
陶芸家としての活動を始める。
晩年1954年 - 1973年
過去の巨匠の作品のオマージュを手がけたり、油彩・水彩・クレヨンなど多様な画材でカラフルかつ激しい絵を描いた。1972年には、死を予測したかのような一連の自画像を手がけた。

私生活

ピカソは仕事をしているとき以外は、一人でいることができなかった。パリ時代初期には、モンマルトル洗濯船モンパルナスに住む芸術家の仲間、ギヨーム・アポリネールガートルード・スタインアンドレ・ブルトンらと頻繁に会っていた。

正式な妻以外にも何人かの愛人を作った。ピカソは生涯に2回結婚し、3人の女性との間に4人の子供を作った。ピカソがパリに出て最初に付き合ったのは(フェルナンド・オリヴィエ)(英語版)だが、「青の時代」「ばら色の時代」をへて富と名声を得たピカソは、つぎに(エヴァ・グール)(フランス語版)という名前で知られるマルセル・アンベール(Marcelle Humbert)と付き合った。ピカソは彼女を讃えるために、作品に「私はエヴァを愛す (J’ AIME EVA)」、「私の素敵な人 (MA JOLIE)」などの言葉を書き込んだ。しかし彼女は結核を患い、1915年に亡くなった[17]

1916年、ピカソはセルゲイ・ディアギレフ率いるロシア・バレエ団舞台美術を担当した(ジャン・コクトー作『パラード』)。そこでバレリーナで貴族出身の(オルガ・コクローヴァ)(英語版)と知り合い、1918年に結婚した。オルガはピカソをパリの上流階級の社交界に引き入れ、ブルジョワ趣味を教えた。二人のあいだには息子パウロ(Paulo)が生まれた。ピカソははじめのうちこそ妻に調子を合わせていたが、しだいに生来のボヘミアン気質が頭をもたげ、衝突が絶えなくなった。

1927年、ピカソは17歳の(マリー・テレーズ・ワルテル)(英語版)と出会い、密会を始めた。ピカソはオルガと離婚しようとしたが、資産の半分を渡さねばならないことがわかり中止した。ピカソとオルガは1935年に別居した[17]が、結婚そのものは1955年にオルガが亡くなるまで続いた。ピカソはマリー・テレーズと密会を続け、1935年に娘マヤ(Maya)が生まれた。

またピカソは1936年から1945年まで、カメラマンで画家のドラ・マールと愛人関係をもった。彼女はピカソ芸術のよき理解者でもあり、『ゲルニカ』の制作過程を写真に記録している。

1943年、ピカソは21歳の画学生(フランソワーズ・ジロー)(英語版)と出会い、1946年から同棲生活を始めた。そして(クロード)(英語版)パロマが生まれた。しかし、フランソワーズはピカソの支配欲の強さと嗜虐癖に愛想をつかし、1953年、2人の子を連れてピカソのもとを去り、他の男性と結婚した。このことはピカソに大きな打撃を与えた。フランソワーズはピカソを捨てた唯一の女性と言われている[18]

しかしピカソはすぐ次の愛人(ジャクリーヌ・ロック)(英語版)を見つけた。彼女は南仏ヴァロリスの陶器工房で働いていたところをピカソに見そめられ、1961年に結婚した。しかし、この結婚は、ピカソのフランソワーズに対する意趣返しという目的が隠されていたと言われている。当時フランソワーズはクロードとパロマの認知を得る努力をしていたので、ピカソはフランソワーズに「結婚を解消すれば、入籍してあげてもいい」と誘いかけた。これに乗ってフランソワーズが相手と協議離婚すると、ピカソは既にジャクリーヌ・ロックと結婚していた。

このころピカソは、ジャン・コクトー監督の映画『オルフェの遺言』(1960年)に、自身の役でカメオ出演している。

ピカソが1973年に死去した際、孫にあたるパブリート(パウロの長男)は、ジャクリーヌに祖父の葬儀へ参列することを拒否されたことを苦に自殺した。またパウロは酒と麻薬に溺れて身体を壊し、1975年に死亡した。ピカソの遺産は後妻のジャクリーヌが3割、早逝した先妻オルガと長男パウロの取り分4割を、パウロの子供であるベルナールとマリーナが2割ずつ、非嫡出子であるマヤとクロードとパロマは1割ずつで分けられた。

ピカソの死から年月は経るが、マリー・テレーズとジャクリーヌ・ロックは後に自殺している。フランソワーズ・ジローは、現在まで画家として旺盛な創作を続け、2021年11月26日には100歳の誕生日を迎えた(2010年に東京で日本初の個展を開催)。ピカソの孫にあたるマリーナ(Marina、パウロの長女)の著書には、「いいおじいちゃんになる方法を教えてあげられれば良かった」という言葉がある。

人物と思想信条

第一次世界大戦スペイン内戦第二次世界大戦という3つの戦争に、ピカソは積極的に関わらなかった。フランスの2度にわたる対ドイツ戦争では、スペイン人であるピカソは招集されずにすんだ。スペイン内戦では、ピカソはフランコファシズムに対する怒りを作品で表現したが、スペインに帰国して共和国市民軍に身を投じることはしなかった[注 4]。ピカソは青年時代にも、カタルーニャの独立運動のメンバーたちと付き合った。また、ピカソはアナーキスト的資質もあったといわれるが、実際にアナーキストとして活動をすることはなかった[19]

スペイン内戦中の1937年、バスク地方の小都市ゲルニカフランコの依頼によりドイツ空軍遠征隊「コンドル軍団」に空爆され、多くの死傷者を出した。この事件をモチーフに、ピカソは有名な『ゲルニカ』を制作した。死んだ子を抱いて泣き叫ぶ母親、天に救いを求める人、狂ったように嘶く馬などが強い印象を与える縦3.5m・横7.8mのモノトーンの大作であり、同年のパリ万国博覧会のスペイン館で公開された。ピカソはのちにパリを占領したドイツ国防軍の将校から「『ゲルニカ』を描いたのはあなたですか」と問われるたび、「いや、あなたたちだ」と答え、同作品の絵葉書を土産として持たせたという。

スペイン内戦がフランコのファシスト側の勝利で終わると、ピカソは自ら追放者となって死ぬまでフランコ政権と対立した。『ゲルニカ』は長くアメリカニューヨーク近代美術館に預けられていたが、ピカソとフランコがともに没し、王政復古しスペインの民主化が進んだ1981年、遺族とアメリカ政府の決定によりスペイン国民に返された。現在はマドリードソフィア王妃芸術センターに展示されている[20]

1940年にパリがナチス・ドイツに占領され、親独派政権(ヴィシー政権)が成立した後も、ピカソはパリにとどまった。このことが戦後にピカソの名声を高める要因になった(多くの芸術家たちが当時アメリカ合衆国に移住していた)。しかし本人はただ面倒だったからだとのちに述べている。ヴィシー政権はピカソが絵を公開することを禁じたため、ひたすらアトリエで制作して過ごした。ヴィシー政権は資源不足を理由にブロンズ塑像の制作を禁止したが、レジスタンス(地下抵抗組織)が密かにピカソに材料を提供したので、制作を続けることができた。

1944年、ピカソは友人らの勧めはあったにせよ、自らの意志でフランス共産党に入党し、死ぬまで党員であり続けた。何かとピカソの共産主義思想を否定したがる人に対し「自分が共産主義者で自分の絵は共産主義者の絵」と言い返したエピソードは有名である。しかし、友人のルイ・アラゴンの依頼で描いた『スターリンの肖像』(1953年)が批判されるなど、幾多のトラブルを経験した。1950年スターリン平和賞を受賞し、1962年レーニン平和賞を受賞した。

晩年

 
ピカソの埋葬されたヴォーヴナルグ城

1950年代、ピカソは過去の巨匠の作品をアレンジして新たな作品を描くという仕事を始めた。有名なのは、ディエゴ・ベラスケスの『ラス・メニーナス』をもとにした連作である。ほかにゴヤプッサンマネクールベドラクロワでも同様の仕事をしている。

1955年にはアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の映画『ミステリアス・ピカソ/天才の秘密』の撮影に協力した。この映画は1956年の第9回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞、1984年にはフランス国宝に指定されている。 1968年、彼は347点におよぶエロティックな銅版画を制作。その中には、『しゃがむ女』や『裸婦たち』などの開脚して女性器を露わにする女性たちを描いたものがある(これは、現代写真家のペッター・ヘグレに影響を与える。)多くの批評家がこれを「不能老人のポルノ幻想」、あるいは「時代遅れの画家のとるにたらぬ絵」とみなした。長い間支持者として知られた批評家のダグラス・クーパーさえ「狂った老人の支離滅裂な落書き」と評した。しかしピカソ本人は「この歳になってやっと子供らしい絵が描けるようになった」と言い、悪評は一切気にしなかった。晩年のピカソの作風は、のちの新表現主義に大きな影響を与えたと考えられている。ピカソは死ぬまで時代を先取りする画家であった。

死後

 
ピカソ美術館(パリ)

ピカソは非常に多作な作家であり、世界中の多くの美術館がピカソの作品を保有している。ピカソの名を冠する美術館だけでも、まず生まれ育ったスペインではバルセロナに1963年にピカソ美術館 (バルセロナ)が開館し、2003年には遺族がピカソの出身地であるスペインのマラガ(ピカソ美術館 (マラガ))(英語版)を開館した[21]

ピカソは1973年の死の時点で、多数の作品を手元に残していた。また友人の画家(アンリ・マティスなど)の作品を交換や購入によって相当数持っていた。フランス政府は遺族から相続税としてこれらの作品を徴収し、1985年に国立ピカソ美術館を開館した[22]。一作家の美術館としては世界最大の規模を誇るもので、ピカソの作品だけで油絵251点、彫刻と陶器160点、紙に描かれた作品3,000点を所蔵している。

このほか、アンティーブピカソ美術館 (アンティーブ)カンヌ近郊のヴァロリスピカソ美術館 (ヴァロリス)が存在し、パリと合わせてフランスには合計3つのピカソ美術館が存在する。

1996年、映画『サバイビング・ピカソ』が公開された。フランソワーズ・ジローとピカソの関係を描いたもので、アンソニー・ホプキンスがピカソを演じた。

オークション落札額の推移

2004年、ニューヨークサザビーズ競売で、ピカソの『パイプを持つ少年』(1905年)が1億416万8000ドル(約118億円)で落札され、絵画取り引きの最高額を更新した。2006年5月には、同じくサザビーズの競売で『ドラ・マールの肖像』(1941年)が9521万6000ドル(約108億円)で落札された[23]

2010年5月4日、ピカソの『ヌード、観葉植物と胸像』がニューヨークのクリスティーズで約1億650万ドル(約101億円)で落札され、最高額を更新した。ロサンゼルスの収集家が1950年代に購入した作品で事前予想でも8000万ドル以上と予想されていた。それまで(2010年2月当時)の最高額はアルベルト・ジャコメッティのブロンズ像『歩く男』の約1億430万ドルだった[24]

2006年10月、ラスベガスホテル王で美術品収集家としても知られるスティーブ・ウィンが、1億3900万ドル(約165億円)で別の収集家に売却する予定だったピカソの名画「夢」に誤ってひじを食らわせ、直径約2.6cmの穴を開けてしまった。事件を目撃した友人がインターネットのブログに書き込みをして詳細が発覚した。ウィンは1997年にこの絵を4840万ドル(約58億円)で購入し、長年大切にしてきた。もうすぐお別れとなる絵の前に立ち、友人らに説明していたところ、誤って名画の真ん中に穴を開けてしまった。結局、契約はないことになり、名画は修理され、ウィンの元にとどまることになった。ウィンは穴を開けた瞬間、「何てことをしてしまったのか。でも(破ったのが)私でよかった」と話したという。

2012年7月、オランダクンストハル美術館が所蔵していた「アルルカンの頭部」が、クロード・モネルシアン・フロイドの絵画と共に盗難に遭う。翌年になって犯人は逮捕されたが、絵画は既に焼却されていた[25]

2015年5月11日には、ニューヨークのクリスティーズの競売で、ピカソの「アルジェの女たち バージョン0」が1億7936万5000ドル(約215億円)で落札され、絵画取引の最高額を更新した[23]

2018年5月8日、クリスティーズで『花のバスケットを持つ裸の少女』が1億1500万ドル(約125億円)で落札された[26]

家族

ピカソにはかけがえのないパートナーがいた。それはである。1949年には鳩を描いたリトグラフ』を制作し、世界平和評議会のポスターに使用されるなど、世界で平和の象徴として使用された。ピカソにとって鳩は、重要な政治的シンボルであると同時に、個人的なシンボルでもあった。鳩は、ピカソに画家としての技術を教えた画家である父、ホセ・ルイス・イ・ブラスコのことを思い出させるものだった。父は、1880年代にピカソが幼少期を過ごしたマラガの家で鳩を描いていた。1955年に南フランスのカンヌに移り住んだピカソは、自宅に(鳩舎)(英語版)を建てた[27]。1957年、ピカソは鳩に囲まれた開いた窓を描いた『スタジオ(鳩・ベラスケス)』を描いた[28]。幼い頃から鳩が大好きだったピカソにとって、鳩は生涯の友であり、重要なモチーフでもあった。アトリエには妻さえ入れなかったが、鳩は特別に入れていた。『鳩』を描いた1949年にフランソワーズ・ジローとの間に生まれた娘には、スペイン語で鳩を意味する「パロマ」と名付けた。

パロマ・ピカソは著名なジュエリー・デザイナーとなり、1980年からはティファニー社のデザイナーとして活躍している[29]

孫のマリーナには(フロリアン・ピカソ)(英語版)というベトナムから迎えた養子がいる。ピカソの曾孫にあたる。フロリアンは、ミュージシャンとして活動している。

語録

  • 「絵画は、部屋を飾るためにつくられるのではない。画家(私)は古いもの、芸術を駄目にするものに対して絶えず闘争している」
  • 「労働者が仕事をするように、芸術家も仕事をするべきだ」
  • 「誰でも子供のときは芸術家であるが、問題は大人になっても芸術家でいられるかどうかである」
  • 「ようやく子どものような絵が描けるようになった。ここまで来るのにずいぶん時間がかかったものだ」
  • 「私は対象を見えるようにではなく、私が見たままに描くのだ」
  • スペイン内戦は、スペイン人民と自由に対して、反動勢力が仕掛けた戦争である。私の芸術家としての生涯は反動勢力に対する絶え間なき闘争以外の何物でもなかった。私が反動勢力すなわち死に対して賛成できるなどと誰が考えることができようか。私は「ゲルニカ」と名付ける現在制作中の作品において、スペインを苦痛と死の中に沈めてしまったファシズムに対する嫌悪をはっきりと表明する。」(「ゲルニカ」制作時の声明より)

名前

ピカソの本名は、聖人縁者の名前を並べた長いもので、出生証明書によると、「Pablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno Cipriano de la Santísima Trinidad Ruiz y Picasso(パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ)」である。洗礼名は、「Pablo Diego Jose Francisco de Paula Juan Nepomuceno Maria de los Remedios Crispin Crispiano de la Santisima Trinidad Ruiz y Picasso (パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ)」である。画家として活動を始めたピカソは、はじめパブロ・ルイス・ピカソと名乗り、ある時期から父方の姓のルイスを省き、パブロ・ピカソと名乗るようになった。

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ ピカソのフルネームには、さまざまな聖人や親族が含まれる。1881年10月28日に発行された出生証明書によると、彼はパブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセノ・シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・ピカソPablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno Cipriano de la Santísima Trinidad Ruiz Picasso)として生まれた[3] 。彼の洗礼の記録によると、パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセノ・クリスピン・シプリアーノ(他の資料ではクリスピニアノ)・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・マリア・デ・ロス・レメディオス・アラルコン・イ・エレーラ・ルイス・ピカソPablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno Crispín Cipriano (other sources: Crispiniano) de la Santísima Trinidad María de los Remedios Alarcón y Herrera Ruiz Picasso[3][4] 名付け親が弁護士で、家族の友人であったJuan Nepomuceno Blasco y Barrosoであったことから、Juan Nepomucenoと名付けられた[3]。彼は誕生日に行われる10月25日月曜日のサンクリスピンデーにちなんで、Crispín Ciprianoと名付けられた 。Nepomucenoの妻であり、ピカソの名付け親であるMaría de los Remedios Alarcón y Herreraも、ピカソの洗礼名の中で尊重されている [3]
  2. ^ イギリス: [ˈpæbl pɪˈkæs]アメリカ: [ˈpɑːbl pɪˈkɑːs, -ˈkæs-]スペイン語: [ˈpaβlo piˈkaso]
  3. ^ カサヘマスはピカソらとともにパリに出て、ジュルネーヌという女性に思いを寄せたが失恋した。心配したピカソに連れられて一度スペインに戻るが、その後ひとりでパリに行き、カフェで談笑するジュルネーヌに銃弾を浴びせたのち、自分の右こめかみを撃って自殺した。ジュルネーヌは命を取り留め、長命している。
  4. ^ 内戦時にピカソは50代後半であった。兵卒は30歳前後でも老兵と言われる。彼が従軍を望んだとしても、兵卒としては勿論、たとえ尉官クラスの将校待遇にしてもらえたとしても、そもそも実戦に従軍すること自体が体力的にまず不可能であった点は充分な留意が必要である。

出典

  1. ^ Pierre Daix, Georges Boudaille, Joan Rosselet, Picasso, 1900-1906: catalogue raisonné de l'oeuvre peint, Editions Ides et Calendes, 1988
  2. ^ a b アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい ピカソ 生涯と作品」松田健児 p67 東京美術 2006年2月1日初版第1刷発行
  3. ^ a b c d Cabanne, Pierre (1977) (英語). Pablo Picasso: His Life and Times. Morrow. p. 15. ISBN (978-0-688-03232-6). https://books.google.com/books?id=H-DqAAAAMAAJ 
  4. ^ Lyttle, Richard B. (1989) (英語). Pablo Picasso: The Man and the Image. Atheneum. p. 2. ISBN (978-0-689-31393-6). https://books.google.com/books?id=vbZIAQAAIAAJ 
  5. ^ “【寄稿】ピカソ作「韓国での虐殺」は6・25戦争の虚偽宣伝物だ(朝鮮日報日本語版)”. Yahoo!ニュース. 2021年6月6日閲覧。 “ スペインに生まれフランスで活動してきたピカソは、1944年にフランス共産党へ入党し、その翌年のインタビューで「私は共産主義者であって、私の絵は共産主義の絵だ」と表明した。”
  6. ^ “Most prolific painter”. ギネスブック. 2023年1月7日閲覧。
  7. ^ “ピカソのフルネームとギネスの認定について知りたい。”. 国立国会図書館. 2023年1月7日閲覧。
  8. ^ Kimmelman, Michael (1996年4月28日). “Picasso's Family Album” (英語). The New York Times. ISSN 0362-4331. https://www.nytimes.com/1996/04/28/magazine/picasso-s-family-album.html 2022年12月14日閲覧。 
  9. ^ a b c ピカソ展カタログ編集委員会「PABLO PICASSO EXHIBITION-JAPAN 1964」毎日新聞社 1964年
  10. ^ a b 「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい ピカソ 生涯と作品」松田健児 p5 東京美術 2006年2月1日初版第1刷発行
  11. ^ 日本郵趣教会浜松支部
  12. ^ 布施英利『パリの美術館で美を学ぶ ルーブルから南仏まで』光文社、2015年、242頁。ISBN (978-4-334-03837-3)。 
  13. ^ (ピカソとバレエ・リュス)(英語版)参照
  14. ^ Voorhies, James. Pablo Picasso (1881–1973), Heilbrunn Timeline of Art History, The Metropolitan Museum of Art, New York, 2000
  15. ^ Wattenmaker, Richard J.; Distel, Anne, et al.,1993, p. 194
  16. ^ (Richardson John). A Life Of Picasso. The Prodigy, 1881–1906, Dionysos p. 475. New York: (Alfred A. Knopf), 1991. ISBN (978-0-307-26666-8)
  17. ^ a b 「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい ピカソ 生涯と作品」松田健児 p48 東京美術 2006年2月1日初版第1刷発行
  18. ^ 回想記『ピカソとの日々』(フランソワーズ・ジロー/カールトン・レイク共著、野中邦子訳、白水社、2019年)がある。
  19. ^ 「ピカソ」p.62。角川文庫
  20. ^ 「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい ピカソ 生涯と作品」松田健児 p61 東京美術 2006年2月1日初版第1刷発行
  21. ^ 「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい ピカソ 生涯と作品」松田健児 p66-67 東京美術 2006年2月1日初版第1刷発行
  22. ^ 「アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい ピカソ 生涯と作品」松田健児 p66 東京美術 2006年2月1日初版第1刷発行
  23. ^ a b 「美術品オークション、過去の高値上位10作品」.AFPBB 2015年5月12日 2018年9月8日閲覧。
  24. ^ ピカソの絵画が100億円超で落札、美術品の最高記録更新.ロイター 2010年5月5日
  25. ^ 盗難に遭ったピカソらの名作7点、容疑者の母親が「焼却」.AFPBB 2013年7月17日
  26. ^ “パブロ・ピカソが描いた絵画 “花かごを持つ少女” が約125億円で落札される”. HYPEBEAST (2018年5月10日). 2019年5月17日閲覧。
  27. ^ Cole, Ina (2010年5月). “Pablo Picasso: The Development of a Peace Symbol”. Art Times. 2020年12月18日閲覧。
  28. ^ Lewis, Richard (2014年3月9日). “The Dove: Picasso and Matisse”. Lewis Art Cafe. 2020年12月18日閲覧。
  29. ^ https://www.afpbb.com/articles/-/3091079 『「ティファニー」パロマによるメンズジュエリー発表』AFPBB 2016年06月20日 2017年7月11日閲覧

書籍

  • 『親友ピカソ』 (ジェーム・サバルテス)(英語版)美術出版社、1950年。絶版。
  • 『ピカソ礼賛』 神原泰岩波書店、1975年。絶版。
  • 『ピカソ その生涯と作品』 (ローランド・ペンローズ)(英語版)新潮社、1978年。絶版。
  • 『ピカソ全集』 神吉敬三編、講談社、1981年。絶版。
  • 『ピカソ』 (マリ=ロール・ベルナダック) (Marie-Laure Bernadac)(著)、(ポール・デュ・ブーシェ)(英語版)(著)、高階絵里加(翻訳)、創元社「知の再発見」双書〉、1993年、ISBN (4-422-21081-5)、(ISBN 978-4-422-21081-0)。
  • 『ピカソ』 飯田善國著、岩波書店、2000年、(ISBN 4-00-602021-X)、(ISBN 978-4-00-602021-7)。
  • 『ピカソの「正しい」鑑賞法』 岡部昌幸監修、青春出版社〈青春文庫〉、2000年、(ISBN 4-413-09146-9)、(ISBN 978-4413091466)。
  • 『マイ・グランパパ、ピカソ』 (マリーナ・ピカソ)、小学館、2004年、(ISBN 4-09-356631-3)、(ISBN 978-4-09-356631-5)。
  • 『ピカソ』 岡村多佳夫著、角川書店、2008年、(ISBN 978-4-04-392101-0)。
  • 『ピカソの陶芸』 岡村多佳夫著、パイ・インターナショナル、2014年、(ISBN 978-4-7562-4539-7)。
  • 『【作品解説】パブロ・ピカソ「パイプを持った少年」』Art pedia

関連項目

  • (ピカソ財団)(英語版) - 1996年にフランスの裁判所からピカソの財産の正式な管財人として指名された孫のクロードが設立した宣伝や広報などを行う団体。本部は生家であるスペインのマラガ中心部。
  • (On-Line Picasso Project)(ドイツ語版) - 1997年にピカソ財団、デジタル図書館研究センター、(サム・ヒューストン州立大学)外国語学部などが協力して設立したオンライン上の解説付きのデジタルコレクション。アクセスにはパスワードが必要。

外部リンク

  • Musee National Picasso, Paris(国立ピカソ美術館、フランス、パリ)
  • Museo Picasso Malaga(ピカソ美術館、スペイン、マラガ)
  • Museo Picasso(ピカソ美術館、スペイン、バルセロナ)
  • On-Line Picasso Project(オンライン・ピカソ・プロジェクト)
  • スペイン政府観光局オフィシャルサイト ピカソ美術館(日本語)
  • 『(ピカソ)』 - コトバンク
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