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バラ・ビチクチ

バラ・ビチクチモンゴル語: Bala、? - 1248年)は、モンゴル帝国に仕えたウイグル人官僚の一人。第3代皇帝グユクの側近として知られる。

元史』などの漢文史料では八剌(bālà)、『集史』などのペルシア語史料ではبلا(balā)と記される。

概要 編集 )

バラの出自は全く不明であるが、カルピニの旅行記にはチンカイとともに筆頭書記官(protonotarii)であったと記されており、グユク政権の書記長官(ウルグ・ビチクチ)を務めていたようである[1]

しかし、グユクが即位から僅か2年後の1248年に急死すると、モンゴル帝国では次の帝位を巡ってオゴデイ家とトルイ家の間で対立が起こった。この時、オゴデイ家はグユクの皇后オグルガイミシュを中心としてグユクの甥に当たるシレムンを次期皇帝として推していたが、オゴデイ家派の中心人物として活動した一人がバラ・ビチクチであった。オグルガイミシュは天山ウイグル王国を味方につけるためにバラ・ビチクチをウイグル王サランディ・テギンの下に派遣し、バラ・ビチクチは天山ウイグル領内のムスリムを皆殺しにしてその財産を没収することを認め、その見返りとして没収した財産を軍費に充てて5万の軍隊を招集し「いざというときに援助する(シレムン擁立に協力する)」ことを提案したという[2][3]

また、1248年に次期皇帝を決めるクリルタイが開かれるとオグルガイミシュの代弁者としてバラ・ビチクチもこれに参加した。バラ・ビチクチは「昔オゴデイ・カアンが皇孫のシレムンを後継者としていたことは、諸王・百官みなが聴いている。今シレムンがこの場にいるのに、他の者を後継者としようと議するのは何のためか」と訴えたが、トルイ家側は「オゴデイ・カアンの言葉に誰が違おうか。しかし先に議してグユク・カンを立てたのはドレゲネ皇后らであって、これこそオゴデイ・カアンの命(シレムンの擁立)に背いたことに他ならない。今や誰がモンケの擁立を咎められるというのか」と反論し、これにバラ・ビチクチは答えられず、大勢はモンケ擁立に決した[4][5]

こうして最終的にモンケが第4代皇帝として即位すると、モンケは即位直後にクーデターを図ったとの罪状によってカダク・チンカイら旧グユク政権の高官たちを処刑し、この時バラも処刑された[6]

脚注 編集 )

  1. ^ 四日市2002,37頁
  2. ^ Boyle 1958,p48
  3. ^ 劉2006,134-135頁
  4. ^ 『元史』巻3憲宗本紀,「歳戊申、定宗崩、朝廷久未立君、中外恟恟、咸属意於帝、而覬覦者衆、議未決……時定宗皇后海迷失所遣使者八剌在坐、曰『昔太宗命以皇孫失烈門為嗣、諸王百官皆与聞之。今失烈門故在、而議欲他属、将置之何地耶』。木哥曰『太宗有命、誰敢違之。然前議立定宗、由皇后脱列忽乃与汝輩為之、是則違太宗之命者汝等也、今尚誰咎耶』。八剌語塞」
  5. ^ 『元史』巻124列伝11忙哥撒児伝,「定宗崩、宗王八都罕大会宗親、議立憲宗。畏兀八剌曰『失烈門、皇孫也、宜立。且先帝嘗言其可以君天下』。諸大臣皆莫敢言。忙哥撒児独曰『汝言誠是、然先皇后立定宗時、汝何不言耶。八都罕固亦遵先帝遺言也。有異議者、吾請斬之』。衆乃不敢異、八都罕乃奉憲宗立之」
  6. ^ 四日市2002,46頁

参考文献 編集 )

  • C.M.ドーソン著、佐口透訳注『モンゴル帝国史 2』(東洋文庫 128)平凡社、1968年
  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究序説―イル汗国の中核部族』東京大学出版会、1995年
  • 高田英樹『原典 中世ヨーロッパ東方記』名古屋大学出版会、2019年
  • 本田實信『モンゴル時代史研究』東京大学出版会、1991年
  • 四日市康博「ジャルグチとビチクチに関する一考察:モンゴル帝国時代の行政官」『史観』147号、2002年
  • 劉迎勝『察合台汗国史研究』上海古籍出版社、2006年
  • ジュヴァイニー『世界征服者史』(Tārīkh-i Jahān-gushāy
    • (校訂本) Muʾassasah-ʾi Intishārāt-i Amīr Kabīr,Tahrīr novīn Tārīkh-i Jahān-gushāy Juvainī , Tihrān 1378 [1999 or 2000]
    • (英訳) John Andrew Boyle (tr.), The History of the World-Conqueror, 2 vols., Manchester 1958
  • ラシードゥッディーン『集史』(Jāmiʿ al-Tavārīkh
    • (校訂本) Muḥammad Rawshan & Muṣṭafá Mūsavī, Jāmiʿ al-Tavārīkh, (Tihrān, 1373 [1994 or 1995])
    • (英訳) Thackston, W. M, Classical writings of the medieval Islamic world v.3, (London, 2012)
    • (中訳) 余大鈞・周建奇訳『史集 第2巻』商務印書館、1985年
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