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バッファロー・セイバーズ

バッファロー・セイバーズ (Buffalo Sabres) は、アメリカ合衆国ニューヨーク州バッファローを本拠としているナショナルホッケーリーグ (NHL) 所属のプロアイスホッケーチームである。

バッファロー・セイバーズ
Buffalo Sabres
カンファレンス イースタン・カンファレンス
ディビジョン アトランティック
創設年 1970年
歴代チーム名 バッファロー・セイバーズ
(1970 - )
ホームアリーナ キーバンク・センター
ホームタウン アメリカ合衆国
ニューヨーク州バッファロー
チームカラー ロイヤルブルー、ゴールド、白
     
メディア
オーナー (テリー・ペグラ)
GM (ケヴィン・アダムス)
ヘッドコーチ (ドン・グラナート)
キャプテン (カイル・オクポソ)
獲得タイトル(獲得年)
スタンレーカップ優勝 (0回)
なし
アブコワールド (0回)
なし
カンファレンス優勝 (3回)
1975・1980・1999
ディビジョン優勝 (6回)
1975・1980・1981・1997
2007・2010
プレジデンツトロフィー (1回)
2007

歴史

チーム創設から1980-1981シーズンまで

バッファロー・セイバーズは1970年にNHLに加盟した。その前身は、AHLのバッファロー・バイソンズ (Buffalo Bisons) であり、バイソンズは同リーグで数年の間強豪チームとして成功を収めていた。チームの発足は順調で、オフシーズンのNHLドラフトでも全指名順位中第1位で後の殿堂入り選手のセンター、(ジルベール・ペロー) (Gilbert Perreault) を獲得した[1]。ペローはこの年、新人ながら38ゴール34アシストを挙げてカルダー記念賞(最優秀新人賞)を受賞したが、チームは24勝39敗15分でイースタンディビジョン5位であった[1]

1971-1972シーズンには、リック・マーティンをドラフトで獲得、シーズン終盤には、ピッツバーグ・ペンギンズからトレードで(ルネ・ロベール)を獲得、ペロー、マルタン、ロベールのフランス系カナダ人選手で組んだフォワードラインは、ファンから同名の映画にちなみ「フレンチ・コネクション」(The French Connection) と名付けられた。チームは16勝43敗19分でイースタンディビジョン6位であった[1]

1972-1973シーズンには、ドラフトでディフェンスマンの(ジム・ショーンフェルド)(Jim Schonfeld)を獲得、また大ベテランのティム・ホートン(Tim Horton)が加入してリーダーシップを発揮した[2]。チームは37勝27敗14分で創立から3シーズン目にして初のプレーオフ進出を果たしたが、準々決勝で、この年スタンレー・カップ優勝のモントリオール・カナディアンズに2勝4敗で敗れた[1]

1973-1974シーズンはペローが足の故障で8週間欠場、ゴーリーの(ロジャー・クロージャー)(Roger Crozier)も膵炎でシーズン途中に離脱した。さらに2月20日のトロント・メープルリーフス戦を終えて、トロントからバッファローへ帰宅途中のホートンがセイバーズと契約した際にボーナスとして受け取ったデ・トマソ・パンテーラで事故を起こして亡くなった[2]。ホートンは、飲酒運転に加えて、鎮痛剤を利用していた。チームは主力選手が欠場する中、プレーオフを逃したものの32勝34敗12分で5位となった[1]

1974-1975のレギュラーシーズン、フレンチコネクションがそれぞれトップ10に入る得点をあげて、チーム全体では354得点をあげた。チームは49勝16敗15分で新設されたアダムズ・ディビジョンで1位となった。プレーオフではシカゴ・ブラックホークスを4勝1敗、カナディアンズを4勝2敗で破り、スタンレー・カップファイナルに進出した。フィラデルフィア・フライヤーズとのシリーズでは、アウェイで連敗した後、華氏90度の高温の中で行われたホームでの第3戦(濃霧の中で行われたため、後に「霧の試合」(Fog Game) と呼ばれるようになった。)で延長の末、初勝利をあげた。第4戦も勝利し、2勝2敗としたものの、スター・ゴーリーの(バーニー・ペアレント) (Bernie Parent) を擁するフライヤーズの前に2勝4敗で敗れた[1]

1975-1976シーズンには、46勝21敗13分でディビジョン2位となった。ペローが113ポイントをあげるなど、フレンチコネクションの3人はいずれも86ポイント以上を獲得した。1月4日に行われたソ連の(クリリヤ・ソビエトフ)とのエキシビションゲーム(スーパシリーズ)では、他の3チームがソビエトフに敗れる中、唯一NHLチームで勝利をあげた。プレーオフでは、セントルイス・ブルースを3勝2敗で破った後、準々決勝でニューヨーク・アイランダーズと対戦、2連勝の後、4連敗して敗れた[1]。この年、加入した(ダニー・ゲア)(Danny Gare)が50ゴールを挙げた。

1976-1977シーズン、48勝24敗8分でディビジョン2位となった。プレーオフ1回戦では、ミネソタ・ノーススターズを一蹴したが、2回戦でニューヨーク・アイランダーズに4連敗してシーズンを終えた[1]

1977-1978シーズン、44勝19敗17分でディビジョン2位となった。プレーオフでは1回戦でニューヨーク・レンジャースを破った後、フライヤーズに1勝4敗で敗れた[1]

1978-1979シーズン、シーズン途中にゼネラルマネージャーとヘッドコーチが解任されたが、暫定ヘッドコーチ就任から7連勝し、36勝28敗16分でディビジョン2位となった。プレーオフでは1回戦でペンギンズに敗れた[1]

1979-1980シーズン、前シーズンまでモントリオール・カナディアンズを率いて4年連続でスタンレー・カップファイナルを制覇していた(スコッティ・ボウマン)がヘッドコーチ、ゼネラルマネージャーに就任した。ロベールがコロラド・ロッキーズ(後のニュージャージー・デビルス)にトレードされた。チームは47勝17敗16分でアダムズ・ディビジョンで1位となり、プレーオフではバンクーバー・カナックスを3勝1敗、ブラックホークスを4連勝で破り、準決勝に進んだが、ニューヨーク・アイランダーズに2勝4敗で敗れた[1]

1980-1981シーズン、ボウマンがGMに専念することとなり、(ロジャー・ニールソン)(Roger Nielson)がヘッドコーチに就任、チームはペローが22試合で欠場する中、39勝20敗21分で2年連続ディビジョン1位となった。1981年3月11日にマルタンがロサンゼルス・キングスにトレードで放出された。プレーオフではカナックスに3連勝した後、ノーススターズに1勝4敗で敗れた[1]

1981-1982シーズンより1995-1996シーズン

1981-1982シーズン、ニールソンがカナックスのヘッドコーチに就任したため、ボウマンがヘッドコーチに復帰した。チームは11月を12勝5敗7分で終えたが、デトロイト・レッドウィングスとのトレードの後、ボウマンの代わりにアシスタントコーチがヘッドコーチに昇格、3月半ばに再度ボウマンがヘッドコーチに就任した。チームが混乱する中、39勝26敗15分でディビジョン3位となり、プレーオフに進出したが、ボストン・ブルーインズに1勝3敗で敗れた[1]

1982-1983シーズン、38勝29敗13分でディビジョン3位となった。プレーオフではカナディアンズを3連勝で破った後、ブルーインズに3勝4敗で敗れた[1]

1983-1984シーズン、ドラフト全体5位で(トム・バラッソ)(Tom Barrasso)を獲得、彼はカルダー記念賞とベジーナ賞に選ばれた。チームは48勝25敗7分でディビジョン2位となったが、プレーオフではケベック・ノルディックスに3連敗で敗れた[1]

1984-1985シーズン、ショーンフェルドがチームに復帰した。チームは38勝28敗14分でディビジョン3位となった。プレーオフ1回戦、ケベック・ノルディックスとの第5戦では残り9分で5-3とリードしていたが、立て続けに3点を失い敗れた[1]

1986年3月7日のデビルス戦でペローが通算500ゴールを達成した。チームは37勝37敗6分で12年ぶりにプレーオフを逃した[1]

1986-1987シーズン、ペローが最初の14試合で9ゴールをあげた。11月24日、ペローが引退、5勝15敗3分となった12月2日、ボウマンGMが解任された。チームはNHLワーストの28勝44敗8分けで2年連続プレーオフを逃した[1]

1987-1988シーズン、ドラフト全体1位で(ピエール・タージオン)(Pierre Turgeon)を獲得、タージオンはチーム6位となる42ポイントをあげた。また(デイブ・アンドレイチャック)がチームトップの78ポイントをあげた。チームは37勝32敗11分で3年ぶりにプレーオフに進出、ブルーインズに2勝4敗で敗れてシーズンを終えた[1]

1988-1989シーズン序盤、トム・バラッソをトレードして(ダレン・パッパ)(Darren Puppa)を獲得した。1989年1月27日、パッパが腕を骨折したため、控えの(ジャック・クルーティエ)(Jacques Cloutier)でシーズンを戦った。3月にワシントン・キャピタルズから(クリント・マラチャック)(Clint Malarchuk)をトレードで獲得したものの、3月22日のブルース戦でマラチャックはスケートのエッジで、頸静脈を6インチ切る大怪我をした。トレーナーとチームドクターの素早い救命措置でマラチャックは一命を取り止め[3]、翌日には退院した。チームは38勝38敗7分でディビジョン3位となり、プレーオフではブルーインズに敗れた[1]

1980年代、セイバーズのスター選手にはペローのほか、タフでかつ技巧を誇った Mike Foligno, ディフェンスの(フィル・ハウズリー) (Phil Housley)、左ウイングの(デイブ・アンドレチャク) (Dave Andreychuk) らがいた。しかし1980年代を通じて、たった2度しかプレーオフ第1ラウンドを突破することはできなかった。

1989年には、ベルリンの壁の崩壊に続いて、旧ソビエト連邦の若手トップ選手がNHLへと流入したが、セイバーズは、前年のドラフトで全体89位で指名した(アレクサンドル・モギルニー) (Alexander Mogilny) と契約を結んだ。モギルニーは43ポイントを獲得[4]、タージオンがキャリア初の100ポイントを達成した。チームは45勝27敗8分でディビジョン2位となった。プレーオフ1回戦でカナディアンズに2勝4敗で敗れた[1]

1990年、ドラフト当日のトレードでウィニペグ・ジェッツから(デール・ハワーチャック) (Dale Hawerchuk) を獲得、彼はこのシーズン89ポイントをあげた。開幕から7試合で1勝もあげられなかったが、31勝30敗19分でディビジョン3位となりプレーオフに進出、1回戦でカナディアンズに敗れた[1]

1991-1992シーズンも開幕から2勝5敗1分とスロースタートであったが、10月25日にアイランダーズからセンターの(パット・ラフォンテーヌ) (Pat LaFontaine) をトレードで獲得した。11月16日にラフォンテーヌはあごを骨折し、チームを離脱したが、12月21日に復帰、57試合の出場で93ポイントをあげる活躍を見せた。チームは31勝37敗12分でディビジョン3位、プレーオフではブルーインズに3勝4敗で敗れた[1]

1992-1993シーズン、ラフォンテーヌとモギルニーがそれぞれ100ポイント以上をマーク、ラフォンテーヌはアメリカ生まれの選手としては最高の148ポイントをあげた[5]。モギルニーはウィニペグ・ジェッツの(テーム・セラニ) (Teemu Selanne) と並ぶリーグトップタイの76ゴールをあげ、ラフォンテーヌは53ゴール、95アシストをあげた。その一方でチームは297失点を許し、38勝36敗10分でディビジョン4位となった。プレーオフでは1回戦で第1シードのブルーインズと対戦、4連勝で10シーズンぶりに1回戦を突破した。なお、ブルーインズとの第4戦の延長にブラッド・メイ (Brad May) が決勝点を挙げたときのベテランラジオアナウンサー Rick Jeanneret の実況「メイが決めた!」("May Day!") はリーグの語り草になっている[6]。チームは2回戦でこの年スタンレー・カップ優勝のカナディアンズを相手に3試合で延長まで戦ったものの4連敗で敗退した[1]

1993-1994シーズン、11月19日にラフォンテーヌがひざの負傷でシーズン絶望となった。またゴーリーの(グラント・ファー)(Grant Fuhr)もひざの手術をすることになり、6週間以上欠場することとなった。控えゴーリーのドミニク・ハシェックがこのチャンスをものにして、ベジーナ賞に選ばれる活躍を見せた。デビルスとのプレーオフ第6戦でハシェックは70本のシュートを打たれたがシャットアウト、味方も(マーティン・ブロデューア)からゴールを奪えず、延長5分43秒に(マイク・ハナン)があげたゴールで3勝3敗のタイに持ち込んだが、第7戦では敗れた[1]

1994-1995シーズン、NHLは4ヶ月ロックアウトが実施された。ハシェックはこの年もベジーナ賞を獲得した。ラフォンテーヌが22試合しか出場できなかったものの、チームは22勝19敗7分でプレーオフに進出、フィラデルフィア・フライヤーズに1回戦で敗れた[1]

1995-1996シーズン、モギルニーをカナックスにトレードした。チームはこの年33勝42敗7分で(ノースイースト・ディビジョン)5位でプレーオフを逃した。このシーズンで本拠地(メモリアル・オーディトリアム)に別れを告げた[1]

1996-1997シーズンより2004-2005シーズン

1996年5月22日、(シーモア・H・ノックス3世)オーナーが亡くなった。シーズン序盤にラフォンテーヌが脳震盪でチームを離脱、ハシェックがベジーナ賞とハート記念賞を同時受賞する活躍を見せた。チームは40勝30敗12分でノースイースト・ディビジョン1位となった。プレーオフでハシェックは、スポーツライターのジム・ケリーともみ合い、出場停止処分を受けた。控えゴーリーの(スティーブ・シールズ)(Steve Shields)の活躍でオタワ・セネターズを4勝3敗で破り、2回戦に進んだが、フライヤーズに1勝4敗で敗れた。(テッド・ノーラン)ヘッドコーチは、ジャック・アダムス賞に選ばれたが解任された[1]

1997-1998シーズン、(リンディ・ラフ)がヘッドコーチに就任した。ハシェックは、ベジーナ賞とハート記念賞に選ばれる活躍を見せた。チームは36勝29敗17分でディビジョン3位となった。この年、ハシェックは長野オリンピックにチェコ代表で出場した。プレーオフではフライヤーズを4勝1敗、カナディアンズを4連勝で破り、イースタン・カンファレンス決勝に進出したが、キャピタルズに2勝4敗で敗れた。シーズン終了後、チームは売却された[1]。このシーズン、セイバーズはハシェックをはじめ、エンフォーサーの(マシュー・バーナビー) (Matthew Barnaby)、左ウイングのミロスラフ・サタン (Miroslav Satan)、右ウイングのドナルド・オーデット (Donald Audette)、センターの(マイケル・ペカ) (Michael Peca) らベテラン選手がそれぞれの持ち場で力を発揮した。

1989-1999シーズン、ハシェックは、3年連続、6年間で5度目となるベジーナ賞に選ばれた。チームは37勝28敗17分でディビジョン4位、プレーオフにイースタン第7シードで進出した。プレーオフ1回戦でディビジョン1位のセネターズを4連勝で破り、2回戦でブルーインズを4勝2敗で、カンファレンス決勝でトロント・メープルリーフスを4勝1敗で破った。ダラス・スターズとのスタンレー・カップファイナルでは、第1戦を延長の末、(ジェイソン・ウーリー)の決勝ゴールで3-2で勝利した。第2戦に敗れ、第3戦も地元で1-2と敗れた後、第4戦は2-1で勝利したが、第5戦は敗れて2勝3敗で迎えた第6戦、トリプルオーバータイムの末、ブレット・ハルに決勝点を許し、2勝4敗で敗れた。ただし、決勝ゴールの際ハルのスケートが明らかにゴール・クリーズ(ゴールネット前のエリア)を犯しており、1999年当時のホッケーのルール上は攻撃側選手がこのエリアにいる場合のゴールは無効とされていたため、スターズの勝利は物議を醸した[1]。その当時スターズの地元紙『(ダラス・モーニング・ニュース)』(Dallas Morning News) のホッケー担当記者だったキース・ゲイヴ (Keith Gave) ですらも、このゴールの妥当性に疑問を呈したほどであった。40ゴールを決めたサタンに加え、新たにピッツバーグ・ペンギンズからセンターの(スチュ・バーンズ) (Stu Barnes)、またキャピタルズから(ジョー・ジュノー) (Joe Juneau) を獲得した。(ミハル・グロセク) (Michael Grosek) は自身最高のシーズン成績を収めた。

1999-2000シーズン、ハシェックが怪我のため35試合の出場にとどまり、新人の(マーティン・ビロン) (Martin Biron) が多くの試合に出場した。チームはカロライナ・ハリケーンズをわずか1ポイント差で上回り、プレーオフ出場を果たしたが、フライヤーズに1勝4敗で敗れた。

2000-2001シーズン、ハシェックが怪我から復帰し、ベジーナ賞を獲得した。キャプテンの(マイケル・ペカ) (Michael Peca)が契約のこじれからホールドアウトを行った。チームはディビジョン2位でプレーオフに進出、プレーオフ1回戦でフライヤーズを4勝2敗で破った[1]。2回戦進出を決めた試合では8対1と完璧な勝利を収めたが、ペンギンズとの2回戦では地元で連敗した後、敵地ピッツバーグで連勝、ホームの第5戦も勝利して、シリーズ優勝まであと1勝となったが、第6戦、第7戦をいずれも落として敗れた[1]。第7戦ではダブルオーバータイム終盤、(ダリウス・カスパライティス) (Darius Kasparaitis) に決勝ゴールを許した。

2001-2002シーズン開幕前には、ペカをニューヨーク・アイランダーズにトレードした[7]。またハシェックとの長期に渡る契約交渉も不調に終わって、セイバーズはハシェックをデトロイト・レッドウィングスにトレードした[8]。チームは6シーズンぶりにプレーオフ進出を逸した[1]

2002年7月、チームオーナーで Adelphia Communications のCEOでもある(ジョン・ライガス) (John Rigas) が、同社から10億ドル以上の資金を業務上横領した容疑で逮捕されるなど[9]、チームを取り巻く環境が急激に悪化していった。このためチームは短期間リーグによって管理運営された後、2003年1月には破産申請をし[10]、その後ニューヨーク州ロチェスター在住の富豪で、ニューヨーク州知事選候補者であった(トム・ゴリサーノ) (Tom Golisano) に9200万ドルで買収された[1]

この後チームは混乱からの脱却を図り、(ダニエル・ブリア) (Daniel Briere)、(デレク・ロイ) (Derek Roy)、ロリー・フィッツパトリックら若手の登場・躍進も見られた。

2003-2004シーズン、カルガリー・フレームスから(クリス・ドュリューリー) (ChrisDrury) を獲得した。チームはシーズン前半の不振から後半持ち直したものの、レベルの高いノースイースト・ディビジョン最下位に終わり、プレーオフ進出を逸した[1]

2004-2005シーズンはロックアウトによりNHLの試合開催が中止された[1]

2005-2006シーズン以降

2005-2006シーズンはゴーリーライアン・ミラーや30ゴールをあげたフォワード(クリス・ドュリューリー)などの活躍で、52勝24敗6延長戦負けというイースタン・カンファレンストップの好成績を残し、(リンディ・ラフ)コーチは、ジャック・アダムス賞を受賞した[11]。プレーオフでは1回戦でフライヤーズを4勝2敗で下し、2回戦もオタワ・セネターズを4勝1敗で下した[1]。しかし、カロライナ・ハリケーンズとのカンファレンス決勝までの間に怪我人が増え、第6戦では(ジェイ・マッキー)も怪我人になった。第7戦は4対2で負けてシーズンが終わった。オフにフォワードの(ジャン・ピエール・デュモン) (Jean-Pierre Dumont)、ディフェンスのマッキーらを放出し、ディフェンスに(ヤロスラブ・スパッチェク) (Jaroslav Spacek) を加えた。

2006-2007シーズン、セイバーズは新しいホームジャージ、アウェイジャージを採用し、チームロゴもそれまでのレッドアイバッファローから黄色・青を基調としたバッファローのロゴに変更され、チームカラーも変更された。チームは開幕から10連勝するなど、15勝1敗1延長戦負けというロケットスタートを切った。53勝22敗7延長戦負けでプレーオフに進出し、ニューヨーク・アイランダーズを4勝1敗、ニューヨーク・レンジャースを4勝2敗で破ってカンファレンス決勝まで駒を進めたが、セネターズに敗れて2年連続でカンファレンス決勝で姿を消し、スタンレーカップファイナル進出を逃した。オフ、キャプテンを務めていたダニエル・ブリアがフライヤーズ、クリス・ドュリューリーがレンジャースに移籍した[1]

2007-2008シーズン、中心選手2人を失ったチームは、39勝31敗12延長戦負けでシーズンを終えて、プレーオフを逃した[1]

2008-2009シーズン、(ティム・コノリー)と2年420万ドルで契約を延長した。また、フェニックス・コヨーテズから(ミカエル・テルクヴィスト) (Mikael Tellqvist) を、(ドミニク・ムーア) (Dominic Moore) をトロント・メープルリーフスから獲得[12]、(アレス・コタリック) をエドモントン・オイラーズにトレードした。チームは41勝32敗9延長戦負けで、わずか2ポイント差でプレーオフを逃した[1]

2009-2010シーズン、ゴーリーのライアン・ミラーは、アメリカ代表としてバンクーバーオリンピックに出場し、決勝の延長に、シドニー・クロスビーにゴールを決められたものの銀メダルを獲得した[13]。この年チームは45勝27敗10延長戦負けで、ミラーがベジーナ賞に[14]、ディフェンスマンの(タイラー・マイヤーズ) (Tyler Myers)がカルダー記念賞に選ばれた[15]。プレーオフではボストン・ブルーインズに2勝4敗で敗れた[1]

2010-2011シーズン、2月に、チームキャプテンの(クレイグ・リヴェイ) (Craig Rivet) をウェーバー[16]、彼はコロンバス・ブルージャケッツに入団した。2月23日、(テリー・ペグラ)が1億8900万ドルでチームを買収したこと、チームをバッファローから移転させないことを発表した。この年、チームは43勝29敗10延長戦負けで、プレーオフに進出、プレーオフではミラーが2試合で完封する活躍を見せたが、3勝4敗で敗れた[1]

2011-2012シーズン、開幕前に(ジェイソン・ポミンビル) (Jason Pominville) をキャプテンに指名した。ヨーロッパで開幕したこのシーズン、アナハイム・ダックスをヘルシンキで、ロサンゼルス・キングスをベルリンで破った。11月12日のボストン・ブルーインズ戦でゴーリーのミラーが脳震盪を起こし[17]、その後9試合に欠場、続く33試合でわずか9勝しかあげられなかった。3月には14勝1敗3延長戦負けと好成績をあげたが、チームは39勝32敗11延長戦負けで、3ポイント差でプレーオフを逃した[1]

2012-2013シーズン、開幕前の7月に(デレック・ロイ) (Derek Roy) とのトレードで、ダラス・スターズから(スティーブ・オット) (Steve Ott) を獲得した[18]。このシーズンからロックアウトで3ヶ月開幕が遅れて、48試合となったレギュラーシーズンでは、2月20日に16シーズンチームの指揮を執ったリンド・ラフヘッドコーチが解任され、(ロン・ロルストン) (Ron Rolston)が後任となった[19]。トレード期限に、(ジョーダン・レオポルド) (Jordan Leopold) をセントルイス・ブルースに、(ロビン・レゲエ) (Robyn Regehr) をロサンゼルス・キングスに、キャプテンのポミンビルをミネソタ・ワイルドに放出してドラフト指名権を獲得[20]、チームの再建に乗り出した。チームは4月に8勝したものの、21勝21敗6延長戦負けで、ノースイースト・ディビジョン最下位に終わった[1]

2013-2014シーズン、10月27日に(トーマス・ヴァネック) (Thomas Vanek)をニューヨーク・アイランダースにトレードした[21]。チームは最初の20試合で4勝15敗1延長戦負となり、11月13日にロルストンコーチは解任されて[22]、(テッド・ノーラン) (Ted Nolan) が後任となった。ホッケーの殿堂入りしているラフォンテーヌを球団社長に[23]、ティム・マレーをGMに迎えた。11勝25敗4延長戦負けで新年を迎えたチームは、1月にわずか4勝しかできず、ソチオリンピックによる中断を迎えた。ゴーリーのミラーとキャプテンのオットがセントルイス・ブルースにトレードされた[24]。シーズン最後の20試合で2勝に終わるなど、21勝51敗10延長戦負けでシーズンを終えた[1]

主な人物

ホッケーの殿堂

選手
  • ティム・ホートン, D, 1972–74, 1977年推薦
  • (ジルベール・ペロー), C, 1970–87, 1990年推薦
  • (デール・ハワーチャック), C, 1990–95, 2001年推薦
  • (クラーク・ジャイルス), C, 1986–88, 2002年推薦
  • (パット・ラフォンテーヌ), C, 1991–97, 2003年推薦
  • (グラント・ファー), G, 1993–95, 2003年推薦
  • (ディック・ダフ), C, 1970–72, 2006年推薦
  • (ダグ・ギルモア), C, 2000–01, 2011年推薦
  • ドミニク・ハシェック, G, 1992–2001, 2014年推薦
ビルダー
  • (ジョージ・イムラック), ヘッドコーチ/GM, 1970–78, 1984年推薦
  • (スコッティ・ボウマン), ヘッドコーチ/GM, 1980–87, 1991年推薦
  • (シーモア・H・ノックス3世), オーナー(チーム共同創設者), 1970–96, 1993年推薦
  • (ロジャー・ニールソン), アシスタント/ヘッドコーチ, 1979–81, 2002年推薦
(フォスター・ヒューイット・メモリアル賞)(ブロードキャスター)
  • (テッド・ダーリング), 1970–92, 1994年推薦
  • (リック・ジャンヌレ), 1971–2016, 2012年推薦
  • (ハリー・ニール), 2007–13, 2013年推薦
(エルマー・ファーガソン・メモリアル賞)(スポーツライター)
  • Charlie Barton (Buffalo Courier-Express), 1985年推薦
  • Dick Johnston ((バッファロー・ニューズ)), 1986年推薦
  • ジャック・ゲートクリフ ((セントキャサリンズ・スタンダード)), 1995年推薦
  • (ジム・ケリー) (バッファロー・ニューズ), 1981–2010, 2004年推薦

永久欠番

バッファロー・セイバーズ永久欠番
背番号 選手名 ポジション 所属 永久欠番となった年月日
2 ティム・ホートン D 1972–74 1996年1月15日
7 (リック・マーティン) LW 1971–81 1995年11月15日
11 (ジルベール・ペロー) C 1970–87 1990年10月17日
14 (ルネ・ロベール) RW 1972–79 1995年11月15日
16 (パット・ラフォンテーヌ) C 1991–97 2006年3月3日
18 (ダニー・ゲア) RW 1974–81 2005年11月22日
39 ドミニク・ハシェック G 1992–2001 2015年1月13日
  • (マーティン・ビロン)が着用したのを最後に背番号00は、全NHLチームに許可されていない。
  • (アレクサンドル・モギルニー)が着用していた89番は永久欠番となっていないが、彼以降着用した選手はいない[25]

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as “Buffalo Sabres (1970-Present)”. sportsecyclopedia.com. 2015年2月20日閲覧。
  2. ^ a b “Tale of Tim Horton's last ride”. canada.com (2005年9月30日). 2015年2月22日閲覧。
  3. ^ “6.頚静脈から大量出血から生還した秘訣とは”. ゼビオ. 2015年2月22日閲覧。
  4. ^ Joe Pelletier. “GREATEST HOCKEY LEGENDS”. sabreslegends.blogspot.jp. 2015年2月22日閲覧。
  5. ^ “1992-93 featured unprecedented offensive explosion”. NHL (2012年11月30日). 2015年2月22日閲覧。
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関連項目

外部リンク

  • 公式ウェブサイト
  • ClassicBuffalo.com Sports
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