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ハーリド・イブン・アル=ワリード(592年 - 642年、アラビア語: خالد بن الوليد、Khalid ibn al-Walid または Waleed)は、イスラーム初期の正統カリフ時代の武将。アッラーの剣という異名で知られる。(リッダ戦争)(632年 - 633年)とシリア征服戦の指揮官。初期のイスラーム拡大時の戦争において多大な功績を果たした。
ハリード・イブン・アル=ワリード | |
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原語名 | アラビア語: خالد بن الوليد بن المغيرة المخزومي |
生誕 | メッカ, アラビア |
死没 | 642年 メディナ, アラビア or ホムス, シリア |
推定埋葬地 | (ハリード・イブン・アル=ワリード・モスク), ホムス, シリア |
所属組織 | クライシュ族 (625年–627年 or 629年) ムハンマド (627年 or 629年–632年) 正統カリフ (632年–638年) |
部門 | (正統カリフ軍) |
軍歴 | 629年–638年 |
指揮 |
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戦闘 | ウフドの戦い (625) (ムウタの戦い)(629) (メッカ征服) (629/30) en:Battle of Hunayn (630) (リッダ戦争)
Muslim conquest of Syria
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配偶者 | Asma bint Anas ibn Mudrik Umm Tamim bint al-Minhal |
子息 | Abd al-Rahman Muhajir |
生涯
元はメッカのクライシュ族に従う騎兵隊長であり、初期のイスラム軍との戦いにも従軍している。625年のウフドの戦いでは200の騎兵を率いてイスラム軍の背後を突き、ムハンマドを負傷させることにも成功した。しかし628年にクライシュ族とムハンマドの間にフダイビーヤの和議が成立すると、メッカ市内にもイスラムの教えが広まり、ハーリドもこの時に改宗した。
ムハンマドがアラブ世界を統一すると、イスラムはサーサーン朝ペルシアや東ローマ帝国と争うようになる。629年9月にムハンマドは(ザイド)を司令官とする軍勢をシリアへ派遣したが、時の東ローマ軍の待ち伏せ攻撃にあい、イスラム軍は敗北し、ザイドは戦死してしまう。この時に機転を働かせて潰走するイスラム軍をまとめ上げ、無事に撤退させた((ムウタの戦い))。ムハンマドはハーリドの活躍に感激し、アッラーの剣と褒め称えた。