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ハンク・ウィリアムズ

ハイラム・キング・ウィリアムズHiram King Williams1923年9月17日 - 1953年1月1日)は、ハンク・ウィリアムズ[注 1]Hank Williams)の名で知られるカントリー音楽の歴史において最も重要な人物のひとりと見なされている、アメリカ合衆国シンガーソングライター音楽家1947年から、29歳で亡くなった1953年の最初の日までの短い間に、ウィリアムズは、「ビルボード」のカントリー&ウェスタン・チャートにおいて、1位になった11枚を含め、トップ10入りした35枚のシングル盤を録音した(このうち5枚は、ウィリアムズの死後にリリースされた)。

ハンク・ウィリアムズ
ハンク・ウィリアムズ(WSMラジオの宣伝用写真・1951年)
基本情報
出生名 ハイラム・キング・ウィリアムズ
別名 ルーク・ザ・ドリフター
生誕
死没
ジャンル
職業 シンガーソングライター
担当楽器
活動期間 1937年 - 1953年
レーベル
共同作業者 ドリフティング・カウボーイズ
公式サイト www.hankwilliams.com

ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第27位[4]。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第74位。「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第59位[5]

略歴

ハンクの父イロンゾ・ウィリアムズ(Elonzo Williams)は、鉄道会社に勤め、しばしば異動があり、一家はアラバマ州南部の数カ所を転居した。父イロンゾが病気で8年間入院することになり、その間に残された家族は自活を余儀なくされた。幼いハンクは、二分脊椎症のために健康を害していたが、母と姉の手伝いをした。アラバマ州(ジョージアナ)(Georgiana)に住んでいたときに、ハンクはルーファス・"ティー=トット"・ペイン(Rufus "Tee-Tot" Payne)という黒人の路上演奏者に出会い、食事の提供と交換にギターを習った。ペインはハンクの後の音楽のスタイルに大きな影響を与えた。この頃、ハンクは、非公式にだが名前をハイラムからハンクへと改めた。その方がカントリー音楽らしいと思ったのである。

アラバマ州モンゴメリーに住んでいたとき、ティーンエイジになっていたハンクは、地元のラジオ局WSFAのスタジオ前の歩道で、ギターを弾きながら歌っていることがよくあった。首尾よくWSFAのプロデューサーたちの関心を引くことができたハンクは、1937年から、15分番組で歌と司会を務めるようになった。バックを務めるバンドとして結成したザ・ドリフティング・カウボーイズは、ハンクの母リリーがマネジメントを引き受けた。ハンクは学校を辞め、全ての時間を使って音楽の仕事に打ち込んだ。

1941年第二次世界大戦に合衆国が参戦すると、バンドのメンバーの数人が徴兵されてしまう。二分脊椎症のために徴兵されなかったハンクは、代わりのメンバー探しに手こずった。このことと、健康の問題に自分なりに対処しようとして飲み始めた酒の問題が大きくなり、やがてWSFAはハンクを解雇した。1943年、ハンクはオードリー・シェパード(Audrey Sheppard)と結婚し、彼女はステージでハンクとデュエットで歌うとともに、マネージャー役を果たすようになった。スターリング・レコード(Sterling Records)から「Never Again」と「Honky Tonkin'」を出した後、ハンクはMGMレコード(MGM Records)と契約を結んだ。1948年、ハンクは「Move it on Over」をリリースし、ヒットとなった。この年、ハンクは、当時ラジオ番組だった『ルイジアナ・ヘイライド』に出演するようになった。1949年には「Lovesick Blues」をリリースし、これによって音楽界の主流の仲間入りをする。やがて、最初は断られた『グランド・オール・オプリ』への出演も実現した。1948年から1953年までの間に、ハンクは11曲を(「ビルボード」のカントリー&ウェスタン・チャートの)1位に送り出したが、楽譜の読み書きはほとんどできなかった。ハンクのヒット曲には、このほか、「Your Cheatin' Heart」、「Hey Good Lookin'」、「I'm So Lonesome I Could Cry」などがある。

ハンクは、思わしくない背中の状態に由来する痛みを和らげるため、アルコールモルヒネをはじめ、様々な鎮痛剤を服用していたが、1952年には、それが私生活でも、職業生活においても問題を引き起こすようになっていた。ハンクは、何度も深酒で酩酊し、そのために離婚し、『グランド・オール・オプリ』から解雇された。1953年1月1日、コンサートへ赴く途中、ハンクは医師にビタミンB12とモルヒネの混合液を注射してもらったが、既にアルコールと抱水クロラールを摂取していたこともあって、致命的な心臓発作に見舞われ死亡した。まだ29歳と短い人生ではあったが、ハンク・ウィリアムズはカントリー音楽に多大な影響を残した。

ハンク・ウィリアムズの曲は、他の数多くの歌手たちによっても録音され、ポップゴスペルブルースロックなど様々なスタイルでヒットした曲も多かった。ハンクの曲をカバーした歌手たちの例としては、ウィリー・ネルソンタウンズ・ヴァン・ザント(Townes Van Zandt)、ボブ・ディランレナード・コーエンケイク、(ケニー・ランキン)(Kenny Rankin)、ベック・ハンセンジョニー・キャッシュトニー・ベネットザ・レジデンツパッツィ・クラインレイ・チャールズルイ・アームストロングトム・ウェイツなどが挙げられる。ハンク・ウィリアムズは多数の栄誉に輝いており、ロックの殿堂入りも果たしている。

生涯

生い立ち

 
アラバマ州ジョージアナに残るハンク・ウィリアムズの少年時代の家。現在は博物館になっている。

ハンクの両親、イングランド系の父イロンゾ・ハブル・"ロン"・ウィリアムズ(Elonzo Huble "Lon" Williams)[6] と、母ジェシー・リリーベル・"リリー"・スキッパー(Jessie Lillybelle "Lillie" Skipper)は、1916年11月12日にJ・C・ダンラップ師(Reverend J.C. Dunlap)の司式で結婚した。イロンゾの母アン・オートリー・ウィリアムズ(Anne Autrey Williams)は、イロンゾが6歳のときに自殺し、父はその11年後に亡くなった。以降、イロンゾは孤児となった。第6学年で学校を退学したイロンゾは、森林伐採現場で、給水などをする雑用係として働き始めた。やがてイロンゾは、W・T・スミス木材会社(the W.T. Smith lumber company)の鉄道部門で機関士となった。イロンゾが求婚したとき、ジェシー・スキッパーはアラバマ州(ジョージアナ)の近くでミクソン(Mixon)家が所有していた農場に住んでおり、イロンゾの近くにいた。2人は、しばらくの間ミクソン農場に住んだ後、アラバマ州(マウント・オリーブ)(Mount Olive)地域に小屋を借りた。2人は家の脇に小さな店を設け、イチゴの栽培にも取り組んだ。第一次世界大戦が始まると、イロンゾは徴兵され、1918年7月から1919年6月まで軍務についた。その間に、トラックから落ち、鎖骨を折る重傷を負ったが、辛うじて頭部は強く打たずに済んだ。イロンゾ・ウィリアムズが戦争から戻ってきた後、最初の子どもアイリーン(Irene)が1922年8月8日に生まれた。次に生まれた男の子は、産後間もなく亡くなった[7]。ハンク・ウィリアムズは、 イロンゾとリリーの間の3人目の、最後の子どもとして1923年9月17日にマウント・オリーブで生まれた。名前は、旧約聖書の人物ヒラムフリーメイソンの伝説によれば、メイソンの起源のひとり)にちなんでハイラムと名付けられたが、出生証明書には誤った綴り字で「Hiriam」と記された[6]

子どもの頃のハイラムは、家族からは「ハーム (Harm)」と呼ばれ、友達からは「ハーキー (Herky)」とか「スキーツ (Skeets)」と呼ばれていた。彼は、脊椎の形成不全による二分脊椎症の疑いがある状態で生まれ、そのため生じる痛みに一生苛まれ続けた。後年、アルコールや薬物に溺れるようになった原因は、この痛みにあった。材木会社の鉄道員だった父イロンゾは、会社の命令でしばしば勤務地を移った。このため一家は、アラバマ州南部のあちこちで生活した。1930年、ハイラムが7歳だったとき、父は(顔面麻痺)を患い始めた。(退役軍人局)(Veterans Affairs, VA)のフロリダ州ペンサコーラの病院で、脳動脈瘤が原因と診断された後、イロンゾはルイジアナ州アレクサンドリアの退役軍人医療センターへ送られた。イロンゾは8年間にわたって入院し、ハイラムの子ども時代に父はずっと不在であった。イロンゾの入院後、リリー・ウィリアムズは家族を支えなければならなくなった。1933年、ウィリアムズ一家はアラバマ州ファウンテン(Fountain)に移り、伯父伯母にあたるウォルターとアリスのマクニール夫妻(Walter and Alice McNeil)と一緒に住んだ。1934年秋、一家は(グリーンビル)(Greenville)に移り、母リリーは、バトラー郡裁判所の隣で、下宿屋を営み始めた。1935年、ウィリアムズ一家はガーランド(Garland)に落ち着き、リリー・ウィリアムズは新しい下宿屋を経営していた。その後しばらくして、一家は、従兄弟のオパール・マクニール(Opal McNeil)とともにジョージアナに移り、世界恐慌下の厳しい経済環境にも関わらず、リリーはいろいろな副業を見つけながら子どもたちを育てた。昼は缶詰工場で働きながら、地元の病院で夜勤の看護婦としても働いた。ハイラムとアイリーンも、ピーナッツを売ったり、靴磨き新聞配達をしたり、その他諸々の単純な仕事を引き受けていた。ジョージアナで最初に住んだ家は、火事で焼失し、一家は財産を全て失ってしまう。一家は、町の反対側のローズ・ストリート(Rose Street)の新しい家へ移り、母リリーはここでまた下宿屋を始めた。この家には小さな庭があり、そこを畑にして作った様々な作物を、ハイラムと姉アイリーンは、ジョージアナのあちこちに売りに行った。連邦下院議員だったJ・リスター・ヒルの支援を得て、一家はイロンゾの軍人障害年金を受け取れるようになった。イロンゾの入院という状況にありながら、一家は世界恐慌の期間を経済的に何とか乗り切って行くことができた[8]

ハイラムが最初のギターを手に入れた事情については、いくつかの異なる話が伝えられている。母は、ピーナッツを売って得たお金で彼女が買い与えたと述べているが、自分がギターを買い与えたのだと主張する有力な町の住民が少なからずいる。ジョージアナに住んでいたときに、ハイラムはルーファス・"ティー=トット"・ペイン(Rufus "Tee-Tot" Payne)という黒人の路上演奏者に出会い[7]、リリーが作る食事の提供と交換にギターを習った。ペインの音楽スタイルの基にはブルースがあった。ペインがハイラムに教えたコードコード進行、ベース音の進行、伴奏のスタイルは、後年の曲づくりに大いに活かされることになった。後にハンク・ウィリアムズは、かつてペインが教えてくれた曲のひとつ「My Bucket's Got a Hole In It」を録音した[9]。最終的に彼が作り上げたスタイルには、ペインからの影響に加えジミー・ロジャーズ(Jimmie Rodgers)などカントリー歌手たちからの影響も盛り込まれていた[10]1937年、ハイラムは、指示された練習内容をめぐって体育のコーチと喧嘩沙汰になった。母は教育委員会にコーチを辞めさせるよう要求したが断られ、一家はモンゴメリーに移り、これ以降、ペインとウィリアムズ一家は接触を失った。ペインもやがてモンゴメリーへ移ったが、1939年に貧困の中で死んだ。後にハンク・ウィリアムズは、ペインは自分にとって唯一の教師だったと述べている[11]

初期の活動

1937年7月、ウィリアムズ/マクニール一家は、モンゴメリー中心部のサウス・ペリー・ストリート(South Perry Street)に下宿屋を開いた。この頃、ハイラムは自分の名前を非公式にハンクと改めることを決めた。その方が、自分の望みであるカントリー音楽に関わる仕事にふさわしいと思ったからだ、と本人が語っている。学校の放課後や、週末になると、ハンク・ウィリアムズは、シルバートーンのギターを抱えて、地元のラジオ局WSFAのスタジオ前の歩道で、ギターを弾きながら歌った。首尾よくWSFAのプロデューサーたちの関心を引くことができたハンクは、ときどきスタジオ内に呼ばれて、放送で歌うことができた。多くのリスナー(聴取者)がラジオ局に、この「歌う坊や (singing kid)」をもっと聴きたいというリクエストを寄せたので、プロデューサーたちはハンクを週給15ドルで雇い、週2回、15分間の番組を持たせた(当時の15ドルは、2011年の価値では230ドル程度(およそ2万円)に相当する[12])。当時のアラバマ州知事(ギブ・グレイヴス)(Bibb Graves)も、この放送を聴いていたひとりだった[6]1938年8月、父イロンゾ・ウィリアムズが病院から一時帰宅した。イロンゾは前ぶれなくモンゴメリーの自宅に現れた。リリーは家長としての立場をイロンゾに渡したくないと考えていたので、イロンゾは息子の誕生日を祝う9月まで家にいたものの、やはてルイジアナの医療センターに戻っていった[7]

ハンクは、ラジオ番組が成功したことで、音楽で身を立てる準備ができた。受け取っていた給料は、ザ・ドリフティング・カウボーイズと名付けた自前のバンドを始めるのに十分な金額であった。最初のメンバーは、ギターのブラックストン・シューファート(Braxton Schuffert)、フィドルのフレディ・ビーチ(Freddie Beach)、お笑い担当のスミス・"ヘジー"・アデア(Smith "Hezzy" Adair)であった。ジェームズ・E・ポーター(James E. Porter)、通称ジミー・ポーター(Jimmy Porter)は、ハンクのバックでスティール・ギターを弾き始めたときには13歳で、最も年少のメンバーだった。アーサー・ホワイティング(Arthor Whiting)も、ザ・ドリフティング・カウボーイズのギターを担当していた。バンドを組んだハンクは、アラバマ州の中部から南部にかけて、各地のクラブや私的なパーティーなどでの演奏旅行を行なった。1939年10月に、ハンクは学校から退学し、ザ・ドリフティング・カウボーイズはフルタイムで働けるようになった。その後、フィドルのジェームズ・エリス・ガーナー(James Ellis Garne)がバンドに参加した。母リリー・ウィリアムズはバンドのマネージャーとなり、スケジュールの管理や、出演料の交渉を行い、公演会場まで送迎する車の運転をすることもあった。それまで優先されていたハンクの通学という制約が無くなったことで、バンドはジョージア州西部や、フロリダ州西部(いわゆる Florida Panhandle)にまで、足を伸ばすようになった。そうした中でも、ハンクは週中の平日にはモンゴメリーへ戻り、ラジオ番組の放送を続けた[6]1941年にアメリカ合衆国が第二次世界大戦に参戦すると、ハンクにとっては苦難の時代が始まった。バンドのメンバーは全員が徴兵され、その代わりに入ったメンバーは、悪化するハンクのアルコール依存を嫌って、バンドに留まることを断った。ハンクは、酔った状態でラジオ番組に出演するようになり、1942年8月にはWSFAに「飲酒癖」を理由に解雇されてしまった。その後、戦時中のハンクは、アラバマ州モービルの造船会社で働いていた。アラバマ州にいたとき、ハンクは『グランド・オール・オプリ』のスターで憧れの的だったロイ・エイカフ(Roy Acuff)に初めて会った[13]。後に、エイカフは、アルコールの危険をハンクに警告して、「君は百万ドルの声をもっているが、10セントの脳しか持ち合わせていない」と言ったという[14]

1940年代

1943年、ハンク・ウィリアムズはオードリー・シェパードと出会い、結婚した。オードリーはマネージャーとして夫ハンクの売り出しに務めた(彼女はまたライブでハンクとデュエットで歌うこともあった)。ハンク・ウィリアムズは局地的に知られた有名人となっていった。1945年、モンゴメリーに戻ってきたハンクは、最初の歌集『Original Songs of Hank Williams』を出版し、再びWSFAに出演し始めた。1946年9月14日、ウィリアムズは『グランド・オール・オプリ』のオーディションを受けたが、採用されなかった。ハンクは、フレッド・ローズ(Fred Rose)と自作曲6曲について契約を結んだ。ローズはハンクに代わって、この6曲をスターリング・レコードに売り込んで契約をとった。1946年12月11日、初めてのレコーディング・セッションで、ハンクは「Wealth Won't Save Your Soul」と「Calling You」、「Never Again」、「When God Comes and Gathers his Jewels」の4曲を録音した[13]。「Never Again」と「Honky Tonkin'」は、重要なヒット作となった

音楽・音声外部リンク
  "Lovesick Blues"
大ヒット曲「Lovesick Blues」はハンク・ウィリアムズをカントリー音楽のメインストリームに押し上げ、『グランド・オール・オプリ』の常連出演者にした。

1947年、ハンクはMGMレコード(MGM Records)と契約し、「Move It On Over」をリリースして、大ヒットさせた。1948年8月、この年、ハンクは、当時ラジオ番組で、ルイジアナ州シュリーブポートから放送されていた『Louisiana Hayride』に出演するようになり、南東部全域の居間で歌声が流れるようになった。その後、そこそこのヒットが数曲続いた後、(レックス・グリフィン)(Rex Griffin)の歌で知られていた(エメット・ミラー)(Emmett Miller)作品のカバー「Lovesick Blues」が大ヒットとなり、ハンクは主流の音楽の聴衆にも聴かれるようになり、『グランド・オール・オプリ』への出演も実現した[15]1949年6月11日、ハンクは『グランド・オール・オプリ』に初出演し、それまでの誰よりも多い、6回のアンコールを受けた[16]。一緒に演奏したのはギターのボブ・マクネット(Bob McNett)、ベースの(ヒラス・バトラム)(Hillous Butrum)、フィドルの(ジェリー・リバース)(Jerry Rivers)、スティール・ギターの(ドン・ヘルムズ)(Don Helms)で、これが最も有名なドリフティング・カウボーイズの編成となった。当時の出演料は1回1,000ドルと推定されているが、これは2011年の価値に換算すると 9,174ドルに匹敵する[12]。この年、オードリー・ウィリアムズは息子ランドール・ハンク・ウィリアムズ(ハンク・ウィリアムズ・ジュニア)を生んだ[17]。「Lovesick Blues」に続いて、1949年のうちに、「Wedding Bells」、「Mind Your Own Business」、「You're Gonna Change (Or I'm Gonna Leave)」、「My Bucket's Got a Hole in It」など、7曲のヒットを出した[18]

1950年代

ルーク・ザ・ドリフター

音楽・音声外部リンク
  "Beyond the Sunset"
ウィリアムズによるルーク・ザ・ドリフターとしての録音。歌ではなく語りであるのが特徴。

1950年、ハンクは「ルーク・ザ・ドリフター (Luke the Drifter)」名義で宗教的テーマでの吹き込みを始めたが、その多くの内容は歌ではなく朗読であった。ラジオのディスク・ジャッキーやジュークボックスの運営者が、これまでとは全く違うこうした作品を取り上げないのではないか、また既に築いた自分の名前の商品価値を傷つけるのではないか、と恐れたハンクは、変名でこうした作品を発表することにした[19]。ルーク・ザ・ドリフターは、特に「The Funeral」という作品がきっかけとなって黒人たちの間で評判になった。これは、黒人教会における子どもの葬儀の際の牧師の説教を表現したものであった[20]。黒人たちの間での人気は、ハンクの師であったルーファス・ペインに示唆を得て描き出された、登場人物のステレオタイプへの反応によるものであった[9]。ルーク・ザ・ドリフターの歌は、しばしば地方独特の生活と、人生の哲学を表したものであった[21]。ドリフター(流れ者)は、この地方を放浪し、様々な人物の話を語っていった[22]。作品の中には、(パイプオルガン)の伴奏付きのものもあった。一説によれば、ハンクがルーク・ザ・ドリフターという別人格を作り上げたのは、自らの人格のバランスをとるためであったとも言われている[19]

この頃のハンクは、「My Son Calls Another Man Daddy」、「They'll Never Take Her Love from Me」、「Why Should We Try Any More?」、「Nobody's Lonesome for Me」、「Long Gone Lonesome Blues」、「Why Don't You Love Me?」、「Moanin' the Blues」、「I Just Don't Like This Kind of Livin'」など、それまで以上に多くのヒット曲を送り出していた[23]1951年には、「Dear John」がヒットしたが、そのB面だった「Cold, Cold Heart」は、ハンク・ウィリアムズを代表する曲になっていった。同年、この曲をポップ系の編曲でカバーしたトニー・ベネットの盤は、27週間チャートに居座り、1位も獲得した[24]

晩年の活動

1951年、テネシー州で狩猟の旅に出ていたとき、古傷であった背中の痛みが再発し、ハンクは痛みを和らげようと、再び鎮痛剤モルヒネを含む)を服用し、アルコールを摂取するようになった[17]1952年になると、ハンクのアルコール依存症は一層悪化していき、8月11日には、繰り返し酩酊状態で現れたことを理由に『グランド・オール・オプリ』をクビになってしまった。ハンクは、KWKHの『Louisiana Hayride』に復帰し、この番組のためにツアーを再開した。ハンクの演奏は彼が素面のときには賞賛されたが、仕事仲間たちが彼を素面で舞台に上げようと努めたにもかかわらず、過剰な飲酒によって公演に現れなかったり、酷い演奏しかできないことが、しばしば起こった。1952年9月23日に行なわれた、レコーディング・セッションでは「Kaw-Liga」、「Your Cheatin' Heart」、「Take These Chains from My Heart」が録音されたが、これが彼の最後のレコーディングとなった[25]。ハンクの行き過ぎた状態に、フレッド・ローズは仕事の協力を止めてしまった。ザ・ドリフティング・カウボーイズも、この頃には(レイ・プライス)(Ray Price)のバックを務めており、ハンクは各地で地元のバンドに伴奏を求めていた。1952年の年末には心臓も患うようになっており[17]、痛みを緩和するために、強力な抗不安薬である抱水クロラール睡眠薬の一種)を、ホレース・ラフォル・"トビー"・マーシャル医師(Dr. Horace Raphol "Toby" Marshall)に処方されていた[26]

 
アラバマ州モンゴメリー郊外のオークウッド・アネックス墓地の入口にある案内標識

1952年12月31日、ハンクはウェストバージニア州チャールストンチャールストン市立公会堂で公演を開催する事になっていた。前売り券の売り上げは3,500ドルだった(2011年の価値では29,092ドル程度(およそ240万円)に相当する[12])。ところが、ナッシュビル周辺で発生したいわゆる(氷嵐)(ice storm:雨氷を生じる着氷性の雨をともなった)により飛行機が欠航したため、ハンクは運転手として雇ったチャールズ・カー(Charles Carr)という大学生の車で公演会場へと向かった。しかしチャールズは、途中のテネシー州ノックスビルから公会堂に電話をかけ、氷嵐のために約束した時間には間に合わないこと、既にハンクからは、翌日の元日公演が予定されているオハイオ州カントンへ向かうよう指示されていることを知らせた[26]

ハンクは、ノックスビルの(アンドリュー・ジョンソン・ホテル)(the Andrew Johnson Hotel)に午後7時8分に到着し、ロビーですぐに2人前のステーキを注文した。彼はまた、自分のために医師を呼ぶよう求めた。アラバマ州モンゴメリーからテネシー州ノックスビルまでの途上で、彼は抱水クロラールとアルコールを摂取しており、身体への影響を感じていた。カードウェル医師(Dr. P.H. Cardwell)は、ハンクにビタミンB12を2本注射したが、それには1/4グレーン(16ミリグラム)ほどのモルヒネが配合されていた。チャールズとハンクは同日午後10時45分ころにチェックアウトした。ホテルのポーターたちは、しゃっくりを続けるハンクを抱え、車まで運ばなければならなかった。やがて州境を越えてウェストバージニア州に入り、ブルーフィールドに到着したところで、チャールズは24時間営業しているレストランで車を停め、ハンクに食事をするか尋ねた。ハンクは「要らない(I don't)」と答えたが、これが彼の最後の言葉だと信じられている。チャールズはそのまま車を進め、ウェストバージニア州(オーク・ヒル)(Oak Hill)の給油所に立ち寄った際に、寝込んでいるハンクの身体が硬直し始めている事に気づいた。そしてチャールズはハンクの脈を確かめ、既に絶命していることを確認した。彼は給油所のオーナー、グレン・バーデット(Glenn Burdette)にこれを知らせ、地元の(警察長) O・H・ステイミー(O.H. Stamey)が呼ばれた。死体が関わっていたため、ステイミーは無線担当の警官ハワード・ジャニー(Howard Janney)も呼び寄せた[27]。ステイミーとジャニーは、キャデラックエルドラドの車内に、空のビール缶数個と、未録音曲の手書きの歌詞を発見した[7]

ソビエト連邦からの移民で、ほとんど英語を話さなかったイヴァン・マリーニン医師(Dr. Ivan Malinin)が、タイリー葬儀社(the Tyree Funeral House)で検視を行った。マリーニンは、心臓や首に出血を認め、「心臓右心室の(機能不全)」を死因とした。死とは無関係と考えられたが、マリーニンは、ハンクが数日前にモンゴメリーのバーで喧嘩をし、左腕を負傷して包帯を巻くほどのけがを負った際に[28]鼠蹊部も激しく蹴られていたことを発見した[27]。当日の夜、カントンでハンクの公演に集まってきた聴衆に、アナウンサーがハンク・ウィリアムズの死を告げたとき、聴衆は彼が公演を休演するために言い訳をしていると思い笑い出した。しかし、(ホークショウ・ホーキンズ)(Hawkshaw Hawkins)や、他の演奏者たちがハンクを追悼して「I Saw the Light」を歌い始めると、本当にハンク・ウィリアムズが死んだことを悟った聴衆は、これに唱和した[28]

ハンクが死んだ状況については、今でも議論がなされている。一部の論者は、ノックスビルを出発する前に、既に絶命していたと主張している[29]。オーク・ヒルはハンク・ウィリアムズの終焉の地として認識されているが[8]、信憑性の高い説のひとつでは、オーク・ヒルに車が到着する20分ないし30分前に眠ったまま絶命したのだと主張されている。チャールズ・カーが助けを求めた給油所の、通りを挟んだ向かい側には記念碑が建てられている[30]。ハンクが車中で没したキャデラックは、アラバマ州モンゴメリーのハンク・ウィリアムズ博物館(the Hank Williams Museum)に保存されている[31]

遺体は、翌1月2日にモンゴメリーに移送された。遺体は銀製の棺に納められ、当初は、マクダノー・ストリート318番地(318 McDounough Street)で母が営んでいた下宿屋に2日間安置された。葬儀は1月4日に、モンゴメリー公会堂で、花で埋められた舞台上に棺を置いて行なわれた[32]。この葬儀の際には、アーネスト・タブ(Ernest Tubb)が「Beyond the Sunset」を、続いてロイ・エイカフが「I Saw the Light」、(レッド・フォーリー)(Red Foley)が「Peace in the Valley」を歌った[33]。推定で15,000人から25,000人が銀の棺を間近にし、公会堂は2,750人の弔問者でいっぱいになった[34]。葬儀の間に、4人の女性が気絶し、もう1人は棺の足下に崩れ落ちてヒステリー状態となり公会堂から連れ出された[33]。ハンク・ウィリアムズの葬儀は、それまでアラバマ州で行なわれた誰の葬儀よりも遥かに大規模なもので、モンゴメリーで行われた最大の行事となった[35]。葬儀のために贈られた花の量は2トンほどであったという[27]。ハンクの遺骸はモンゴメリーのオークウッド・アネックス墓地に埋葬された。MGMの社長が「ビルボード」誌の取材に語ったところでは、ハンクの死の直前の週に、同社が彼の写真の提供を求めたのは5件だけであったが、死の直後の週にはそれが300件以上になったという。地元のレコード店には、ハンク・ウィリアムズがリリースした全てのレコードを求める客が殺到し、レコードが売り切れた[34]。彼が存命中にリリースした最後のシングルは、皮肉なことに「I'll Never Get Out of This World Alive」(「生きたままではこの世界から出られない」の意)であった。1952年のうちに録音されていた「Your Cheatin' Heart」は、ハンク・ウィリアムズの死後、1953年にリリースされた。この歌はカントリー・チャートの首位に6週間とどまった。この曲名はそのまま、ジョージ・ハミルトンが主演した1964年制作の伝記映画の題名となった(邦題は『ハンク・ウィリアムス物語/偽りの心』)[7]

私生活

1944年12月15日、ハンク・ウィリアムズはオードリー・シェパードと結婚した。この結婚は、オードリーにとって2度目、ハンクにとっては最初の結婚であった。2人の間には、後にハンク・ウィリアムズ・ジュニア)として名声を得る息子ランドール・ハンク・ウィリアムズが1949年5月26日に生まれた。この結婚は常に波乱含みで、たちまち危ういものとなり、ハンク・ウィリアムズは二分脊椎症による背中の激痛を和らげるために摂取していたアルコールやモルヒネ、その他の処方された鎮痛剤が原因で、深刻な問題に陥っていった。2人は1952年5月29日に離婚した[8]。 同年6月に、ハンクは母の家に移り住み、「Half as Much」、「Jambalaya (On the Bayou)」、「Settin' the Woods on Fire」、「You Win Again」、「I'll Never Get Out of This World Alive」と相変わらず次々とヒット曲を出した。しかし、ナッシュビルに戻って正式に離婚手続きを完了した頃には、薬物の問題に歯止めが利かなくなっていた。この頃、関係のあった女性ボビー・ジェット(Bobbie Jett)との間には娘ジェットができたが、その誕生はハンクの死の5日後のことであった[7][36]

1952年10月18日、ハンク・ウィリアムズはビリー・ジーン・ジョーンズ・エシュリマールイジアナ州北西部の(ミンデン)(Minden)で[7]治安判事の前で誓約を交わして結婚した[28]。この結婚は、2人にとってそれぞれ2度目の結婚であり、2人とも以前の結婚で子どもをもうけていた[7]。翌日、2人はニューオリンズ市民公会堂で、公開の結婚式を2回行い、1回14,000席用意された入場券はいずれも売り切れとなった[28]。2回も公開挙式をしたのは、復縁しなければと息子には会わせない、と脅していたオードリーへの当てつけであったとも言われている[37] この時点で、ハンクのアルコール依存と薬物使用は悪化しており、新婦や友人たちは彼を何とか立ち直らせようと努力したが、上手くは行かなかった[28]

ハンク・ウィリアムズの死後、判事はこの2度目の結婚について、ビリー・ジーンの前夫との離婚が届出後の法定和解期間を経て正式に確定する11日前に行なわれており、違法であると判断した。ハンクの前妻オードリーと、母リリーは、この結婚が無効であるという主張を何年にもわたって強く押し進めた[8]。ちなみに、ハンクとオードリーの結婚も、オードリーの前夫との離婚が確定する前に行なわれており、法定和解期間の60日を待たず、離婚後10日目に行なわれたものであった[7]

遺産をめぐる訴訟

ハンク・ウィリアムズの死後、オードリー・ウィリアムズはナッシュビルで、MGMレコードエイカフ=ローズ・ミュージック(Acuff-Rose Music)を相手どって訴訟を起こした。この訴訟は、2社がハンク・ウィリアムズのレコードから生じるロイヤルティーの半額を、引き続き彼女に支払い続けることを求めるものであった。ハンク・ウィリアムズは前妻であるオードリーに、ロイヤルティー収入の半分を渡すことに合意していたが、ハンクの死後にこの合意が有効であるか否かは判然としていなかった。さらに、ハンクは遺言を残さなかったため、本来なら本人の取り分である残りの半分をどうするかもはっきりしておらず、この件には後妻のビリー・ジーンとその連れ子の娘、ハンクの母や姉も巻き込まれることになった[38]

ビリー・ジーンは、カントリー歌手ジョニー・ホートン(Johnny Horton)と1953年9月に再婚した[39]1975年10月22日ジョージア州アトランタの連邦判事は、ビリー・ジーンのハンク・ウィリアムズとの結婚は有効であり、今後生じるロイヤルティー収入の半分は彼女のものであると裁定した[40]

2006年1月20日、(テネシー州控訴裁判所)(Tennessee Court of Appeals)は下級審の判決を支持し、ハンク・ウィリアムズの相続人である息子ランドール・ハンク・ウィリアムズ(ハンク・ウィリアムズjr.)と、娘ジェット・ウィリアムズだけが、1951年にナッシュビルのラジオ局のために行なわれた録音を販売する権利があるとする判断を示した[41]。法廷は、もともとラジオ局WSMで放送された『Mother's Best Flour Show』のために録音された音源の発売について展開された、ポリグラムとレガシー・エンタテイメントの主張を退けた。この音源には、1997年にレガシー・エンタテイメントが取得したもので、その中にはハンク・ウィリアムズのヒット曲のライブ版や、その他の曲のカバーが収録されていた。ポリグラムは、同社が権利を継承したMGMレコードとの契約によって、ウィリアムズはラジオ用に録音した音源を発売する権利を譲り渡していた、と主張していた。2008年10月、(ジョセフ・M・パルマッチオ)(Joe Palmaccio)が修復した『Mother's Best Flour Show』の音源の抜粋が、『Hank Williams: The Unreleased Recordings[42]』と題されて(タイム・ライフ)(Time-Life)から発売された[43]

受け継がれるもの

ウィリアムズは、11曲(「Lovesick Blues」、「Long Gone Lonesome Blues」、「Why Don't You Love Me」、「Moanin' the Blues」、「Cold, Cold Heart」、「Hey Good Lookin'」、「Jambalaya (On the Bayou)」、「I'll Never Get Out of This World Alive」、「Kaw-Liga」、「Your Cheatin' Heart」、「Take These Chains from My Heart」)をチャートの首位に送り込み、さらに多くのトップ10入りしたヒット曲を残した[44]

1987年、ウィリアムズは(アーリー・インフルエンス部門)で、ロックの殿堂入りを果たした[45]カントリー・ミュージック・テレビジョン(CMT)が2003年に選定した「カントリー音楽で最も偉大な40人」では、この年に亡くなったジョニー・キャッシュに次いで、第2位となった。息子のハンク・ウィリアムズ・ジュニアもこのランキングの第20位に入った[46]2004年、『ローリング・ストーン』誌が選定した「歴史上最も偉大な100人のアーティスト」では第74位に入った[47]。1950年代のロックンロールの先駆者たちの多くが、そのキャリアの初期にウィリアムズの曲を録音しており、エルヴィス・プレスリー[48]ボブ・ディランジェリー・リー・ルイス、(マール・ハガード)(Merle Haggard)[49]ジーン・ヴィンセント[50]カール・パーキンス[51]リッキー・ネルソン[52]、(ジャック・スコット)(Jack Scott)[53]、(コンウェイ・トゥイッティ)(Conway Twitty)[54] などもその例である。

1949年にウィリアムズがMGMレコードから出し、チャートの首位となった「Lovesick Blues」は、2011年に(グラミーの殿堂)(the Recording Academy Grammy Hall Of Fame)入りとなった[55]。同じ2011年には、『Hank Williams: The Complete Mother’s Best Recordings….Plus!』が、最優秀歴史的アルバム(Best Historical Album)部門にノミネートされた[56]1999年、ウィリアムズはNative American Music Hall of Fame においても殿堂入りとなった[57]2010年4月12日ピューリッツァー賞委員会は、「普遍的感覚を心にしみる素朴さで表現したソングライターとしての職人技、カントリー音楽をアメリカ人の生活における大きな音楽的文化的存在に変貌させた大きな役割」に敬意を表し、ウィリアムズに没後の特別賞を追贈した[58]

 
テネシー州にあるロレッタ・リンとハンク・ウィリアムズの名を冠したハイウェイ休憩所の看板。

1981年、(ドリグティング・カウボーイズ)のスティール・ギター奏者(ドン・ヘルムズ)(Don Helms)と(ハンク・ウィリアムズ・ジュニア)が組んで、「The Ballad of Hank Williams」を録音した。この曲は、ハンク・シニアが音楽業界の駆け出しだった頃のことや、過剰な金遣いについての、パロディ、ないしは、ノベルティ・ソングであり、ジョニー・ホートン(Johnny Horton)が広めた「The Battle of New Orleans」の旋律で歌われる。ハンク・ジュニアは「ドン、ダディと仕事してた頃のこと、本当はどんなだったか教えてよ」と歌い出す。これを受けてヘルムズは語りと、ウィリアムズと演奏した曲とを面白おかしく織り交ぜながら、ハンク・シニアがよく「百ドルのショーに千ドルを使っていた」と説明する。コーラスは、「だから彼は俺をクビにし、ジェリー・リバースをクビにし、みんなをクビにして、やれるだけやっちまったんだ。オールド・セドリックもクビ、サミー・ブリュートもクビにした。誰だか知らない奴までクビにしたんだ」というものだが、これは、ハンク・ウィリアムズが周りの状況に過剰反応していたことをコミカルな形で取り上げたものである[59]1991年、カントリー歌手の(アラン・ジャクソン)(Alan Jackson)が「Midnight in Montgomery」をリリースしたが、この歌詞は、大晦日のショーに出かける途中で立ち寄ったハンク・ウィリアムズの墓で、ハンクの幽霊に出会うという話である[28]。同じくカントリー歌手の(マーティ・スチュアート)(Marty Stuart)は、「Me And Hank And Jumping Jack Flash」という曲で、ウィリアムズを讃えている。この曲の歌詞は、「Midnight in Montgomery」と同じような設定だが、駆け出しのカントリー歌手がウィリアムズの幽霊から助言をもらうという話になっている[60]1983年カントリー歌手(デイヴィッド・アラン・コー)(David Allan Coe)がリリースした「The Ride」は、ギターをもった若い男がモンゴメリーでヒッチハイクをしていて、キャデラックに乗ったハンク・ウィリアムズの幽霊に拾われ、ナッシュビルの外れまで乗せてもらうという話で、幽霊は「...俺のことをミスターなんて呼ばないでくれ、ミスター、世界中の誰もが俺をハンクと呼んでるんだから」と言う[61]。ウィリアムズが残した遺産を受け継ぎ、息子のハンク・ウィリアムズ・ジュニア、娘のジェット・ウィリアムズ、孫息子の(ハンク・ウィリアムズ3世)(Hank Williams III)と孫娘たちヒラリー・ウィリアムズ(Hilary Williams)と(ホリー・ウィリアムズ)(Holly Williams)は、いずれもカントリー・ミュージシャンになっている[62]

トリビュート

近年の受賞

受賞部門など 注記
1989 ベスト・カントリー・コラボレーション(ボーカル)
(Best Country Vocal Collaboration)
グラミー賞 ハンク・ウィリアムズ・ジュニアとともに
1989 ミュージック・ビデオ・オブ・ザ・イヤー CMA ハンク・ウィリアムズ・ジュニアとともに
1989 ボーカル・イベント・オブ・ザ・イヤー CMA ハンク・ウィリアムズ・ジュニアとともに
1989 ビデオ・オブ・ザ・イヤー ACM ハンク・ウィリアムズ・ジュニアとともに.
1990 ボーカル・コラボレーション・オブ・ザ・イヤー TNN/Music City News ハンク・ウィリアムズ・ジュニアとともに
1990 ビデオ・オブ・ザ・イヤー TNN/Music City News ハンク・ウィリアムズ・ジュニアとともに
2003 「カントリー音楽で最も偉大な40人」第2位 CMT

ミュージック・ビデオ

ビデオ 監督
1989 "There's a Tear in My Beer" (ハンク・ウィリアムズ・ジュニアと) (イーサン・ラッセル)(Ethan Russell)
"Honky Tonk Blues"
1996 "Cold, Cold Heart" バディ・ジャクソン(Buddy Jackson)

ディスコグラフィ

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 姓は、日本盤のレコードなどでは「ウィリアムス」と表記されるが、文献での言及では、しばしば実際の発音に近い「ウィリアムズ」とされる。

出典

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参考文献

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外部リンク

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  • Hank Williams - IMDb(英語)
  • Hank Williams at Allmusic
  • Hankville fan website
  • Williams's boyhood home and museum
  • at the Rock and Roll Hall of Fame – 1987 Inductee
  • PBS – American Masters
  • Sites related to final day
  • Williams article, Encyclopedia of Alabama
  • A Hank Williams Discography
  • Listing of all Williams's songs and alternatives
  • 'Hank Williams: The Show He Never Gave'
  • Hank Williams “Revealed: The Unreleased Recordings” Time Life review on CountryMusicPride.com
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